光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和元年9月

一行三昧会

佐藤 蓮洋

◇日 時:6月2日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:大南龍昇園主
◇参加者:13名

 毎年この時期に開花する、紫陽花の花をお供えしながら、大ミオヤのはたらきに感謝する念仏会となりました。午前中はお念仏・聖歌・礼拝儀を称え、午後は大南園主のご法話とお念仏・聖歌をお称えしました。
 大南園主のご法話は、弁栄教学(光明主義)の仏身観である、「阿弥陀仏とはどのような仏様でいらっしゃるのか」を3つのパートからお話いただきました。
 第一は、河波定昌上人の『如来光明礼拝儀講座』(二六二~二六五頁)を引用しながら説明いただきました。紀元一世紀前後から大乗仏教が興起するが、無量寿仏(如来)は、アミタ(無量amita)アーユス(寿命ayus)とアミタ・アーブハー(光明abha)であり、無限の生命と光明との目覚めと出現である。私達が帰依する無量寿如来とは、教義や民族の差異を超えて、私達を根底から存在せしめ、生かしたまうところの根源的存在者でまします。その名はいかなる名でもよいが、無量寿(光)=阿弥陀仏のみ名に極まる。本当のところは、無量寿仏が当体として最初から存在していて、まさにそれ故にそこから無量寿仏を説く経典が成立した、というのが真実である。経典があることによって無量寿仏があるのではなく、仏が存在しており、それを経典が明らかにした、その宇宙の本体としての阿弥陀仏は生きとおしであり、無始であり、永遠の阿弥陀仏である。
 第二は弁栄聖者の『人生の帰趣』第二章大ミオヤ(二〇四~二〇五頁)から、阿弥陀様の二つのはたらき「生産門(すべてのものを生み出す宇宙の根源)」と「摂取門(私達衆生を救済する)」から、摂取門についてお話をいただきました。如来の目的は、衆生を涅槃に導くこと。その目的のために、報身・応身の二身となって現れ、衆生摂取のはたらきは二身によってなされている。仏と衆生の関係はさまざまな因縁によって異なる。すなわち、仏のはたらきには濃淡があり、光明により最終的に摂取される時は、法・報・応の三身の中でも、報身・応身が衆生に対して重要な働きをなす。衆生をあるべき姿に導くのは報身の力によってなされるわけである。これは従来の浄土教・浄土宗の教えである、法蔵菩薩は修行を完成し、悟りをひらき、極楽浄土にいらっしゃる酬因感果の阿弥陀様でありますが、この酬因感果の阿弥陀様とは異なり、より広い報身、宇宙が生まれる時から存在し、生き通しで在します如来様、つまり本有法身の阿弥陀様が光明主義の報身観である。この本有の無量寿仏より方便法身とし法蔵比丘が現れたわけです。ですから、阿弥陀様に導かれお浄土に還れば、酬因感果の弥陀は、実は、本有常住如来であることが分かるわけです。この教えも光明主義の原点といえるものです。曇鸞の『論註』には、「法性法身より方便法身を出し、方便法身に依って法性法身を顕す」と説かれているが、弁栄聖者はこの法性法身と方便法身の関係を本迹不二ととらえている。つまり、宇宙の根源としての法性法身とお浄土で説法されている方便法身である阿弥陀仏も不二の関係なわけである。また、弁栄聖者が重要とされた『光明名号経』には、法性法身とは本地身であると説かれており、聖者は、法性法身は本地身であると捉えなおされていると理解できる。
 第三は、『弁栄聖者 光明主義玄談』巻三 二十一~二十二頁(笹本戒浄上人述泉虎一記)から、聖者の報身観を泉虎一氏のお話を通して、笹本戒浄上人のお考えを紹介いただきました。法性法身(本有法身)から方便法身(応身)が出現された。本より円満な人格的のみ姿在します法性法身の体相用と方便法身の体相用は、独立自存の真実在の現象に在します大ミオヤの同一時の二方面である、というのが大ミオヤの真相であり、最終の報身観である。目の前の三昧仏様は、いま、生きていらっしゃる如来様であり、その如来様に御すがりして念仏をすることで、法性法身(本有法身)と方便法身が同時に現れるわけです。
 最後に戒浄上人のお言葉として、「光明主義の法身は宇宙全体、すなわち自然界と心霊界の一切の本体をいう。報身はその中心で、この中心を得れば宇宙全体を獲得できる」との紹介があり、三昧仏様を拝むことで、宇宙の中心を拝むことができるというのが見仏の真意である。そして、法身の中心を得ること、それは報身に出遭うことであり、見仏ということである、と結ばれた。  

同唱十念

念仏と法話の会

佐藤 蓮洋

◇日 時:6月16日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐藤蓮洋
◇参加者:17名

 
 梅雨の合間となりましたが、汗ばむ陽気でした。午前中はお念仏、晨朝の礼拝、聖歌をお称えし、午後は講話、お念仏、ご回向、聖歌をお称えしました。今年度、講話は近藤講師と私の二人で担当することになりました。折角の機会をいただきましたので、学びを深めながら、取り組んでいきたいと思います。以下、講話の要点です。

こころの不思議

1 心、こころ・・・我知らず
 弁栄聖者を心より慕われた荒巻くめ様(福岡県出身)は「火の車おのが作りて我が乗る おのが心は我は知らない」「あみだぶと称うる口で人そしる 悪魔まねきのこととなりぬる」と歌い、田中木叉上人は「くせづきし心の縛りいつ解けん 我と我が気をもてあます我」と歌いました。自分のこころでありながら、自分ではどうすることもできないこころのあり様に深く眼差しを向けていることに、親しみを感じるとともに、そのようなこころに怖れを感じます。
 また、弁栄聖者は〈一心十界〉を説き、地獄餓鬼畜生修羅人間天上の六道と声聞縁覚菩薩仏陀の四聖とを併せた十種類の心の世界を語りました。それぞれ「良心滅亡(地獄)」「奢淫放逸肉欲の奴隷(餓鬼)」「人生を営養生殖の外に目的あるを知らず道徳倫理もない(畜生)」「天狗根性傲慢・惨賊闘乱誠実なく尊貴自大(修羅)」「仁義の情あり(人道)」「公明正大博愛無私(天道)」とされ、そして、「十界何れにも成うべき性能を有て而して因縁の事情によりて善悪の十界を造り出す」と説かれました。この世の因縁によって、だれでもその十界の住人となることが説かれています。私達は犯罪者にも凡人にも聖人にもなる可能性を誰でもが持っているというわけです。
 そのような人間であることを凝視しながら、究極的に私達が目指すべき世界は、菩薩(キリスト、マホメット、孔子、ソクラテス、善導、空海、源空等を紹介)・仏陀であることを説かれたのが弁栄聖者でした。「自己が小天地の小我とすれば宇宙は大我である。此大我と小我が融合して大我の目的を我目的として真理の終局に進むべき力行をなすことが宗教の目的である」と説かれ、それは、まさしく人生の目的ともいえるものです。

2「豊かなこころ」を目指して
 人間としての成長について人間を超えた世界との関係から説いた人物等に孔子、釈迦、プラトン、九識、アブラハム・マズロー(米国の心理学者、一九〇八~一九七〇)がいます。それぞれ、天、涅槃、真善美のイデア界、阿摩羅識(仏性)、自己超越が語られ、根源的で超越的な対象への志向性が特徴といえます。
 また、インドのヒンドゥー教社会における人生区分としての「四住期」は「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」として、最終目標にいたる解脱のプロセスを説いたものです。それぞれの期を「学ぶ」「働く」「祈る(念仏する)」「生死を超える(光明の生活)」と理解して、日常生活の中で4つを組み合わせて人格形成に努めていくことも現実的な方法であると思います。

3 田中木叉上人の進化向上
『田中木叉上人(御法語聴書)』(重住茂筆記)では、次の二つを紹介しました。
(1)身―心―魂―霊(仏性、霊性)の関係では「霊が出よう出ようとしているが魂が邪魔して出れない。」(私は、魂を潜在意識・無意識と理解しました。)そして、「魂を清めるのは、如来の光明炎王光あるのみ」(二〇一頁))と説かれています。炎王光はすべての障りを取り除いてくれる光明だからです。
(2)「進化向上=完成(個人/全体(世界)完成)この二つをなさるのが天地の大仕事。」天地―人間の関係でいえば、「南無あみだ仏南無あみだ仏と私の念を如来様にひっつけるのが念仏」であり、「肉の眼で見るのが自然界。霊なる眼をもってお浄土が実験でき、経験できる」と説かれています。(二五五頁)私なりに理解すると、お念仏をすることで、如来様と親しくなり、肉の眼を持ちながら、しかも霊の眼をもつことができ、その時に私は、同時に二つの世界を重ねて見ることができるようになる。矛盾した状況が、同時に理解(直感)できるという不思議な世界を体験できるかもしれないわけです。

4 山崎弁栄聖者の「無知の知」
『光明の生活』P183「破闇為明増上縁」には、「・・衆生心は闇黒なれば自から自己の闇きを認めず、先ず第一に認識すべきは自己は如来の真理に対して無知なることなり。自己の無知を自覚せざれば如来の心光を獲得せんと欲する動機望発らず。・・自己は無知なり無明なりと自覚するは甚だ難きことなり。・・・世のすべての人は自己の無知を自覚せざるが故に真摯に真理の光明を求めざるなり。自己の無知を確かに認めて真実に如来の光明を求むる者にして真の光明によりて自己の心性を識り得るなり。」と説かれています。無知を自覚し、真摯に深く「真理の光明」を求める者に、「私が私に成る」プロセスが拓かれる。お念仏がその道を先導してくれるのです。
                  同唱十念

念仏と法話の会

花輪 智之

◇日 時:7月28日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:近藤伸介氏
◇参加者:18名

 長かった梅雨の終わりを知らせるようなスッキリとした青空が広がる中、多くのメンバーが集まり、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌をお称え、お盆のご回向を行いました。また、近藤伸介講師から「尊厳死と仏教」と「唯識と光明主義」の二つのテーマについて講義をいただきました。

1尊厳死と仏教
 一般的に尊厳死は延命措置を控える事を意味し消極的安楽死とされ、致死薬を投与する事は積極的安楽死とされる。6/2に放送されたNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」は、多系統萎縮症という難病にかかった日本人女性がスイスで積極的安楽死を選択し、実行するまでのドキュメンタリーであった。
 そこには、「生きることは権利であって義務ではない」という問いかけがあった。
 原始仏典で自死を選んだ三人の比丘の説話によると、釈尊は彼らの自死を否定しておらず、解脱こそが至上のものであり、生きることよりも優先しているようにも見える。
 一方、光明主義からは、「私たちは皆アミダから生じ、霊性によってアミダとつながっている。それゆえ、どんな命にも生きる意味がある」という答えが導かれるであろう。
 しかし、「命」は「霊性」そのものか。そして「命」は誰のものか。
 このテーマについては機会を改めて考えて行きたい。
2唯識と光明主義(第3講)
○アーダーナー識という異名
 「アーダーナー識」とは「アーラヤ識」の異名であり、「アーダーナー」とは「執着」を意味する。唯識では、様々な器官から成る私たちの身体が一つの統合体として、維持され、機能するのはアーダーナー識の働きであり、アーラヤ識が有する身体への執着によると説明する。また、唯識では、輪廻転生の際にも、アーラヤ識=アーダーナー識によって新たな身体が獲得されると説かれている。

○唯識が語る無我と輪廻転生
 唯識では、表象を生じさせる潜勢力(種子)が刹那に生滅する存在であり、一瞬たりとも止まることがない個々の水滴とすれば、その総体である一切種子識=アーラヤ識は大河の激流のように絶えず変化し続ける「無常」であると説く。
 唯識において、輪廻転生は、アーラヤ識が身体的な死の種子を発現させ、新たな身体の誕生の種子を発現するという現象と言えるが、アーラヤ識自体は生死を超えて存続するため、輪廻の主体とみなすことができる。
 アーラヤ識はバラモン教が輪廻の主体とみなすアートマンのように永遠不変の実体ではない。
 アーラヤ識は、「刹那滅」を繰り返す「無常」の種子の総体として絶えず変化することで、「諸法無我」の原則を守り、かつ最終解脱に至るまで生死を超えた輪廻転生の主体にもなり得る。
 これにより、無我と輪廻転生との両立という仏教の立場に説明がつくため、仏教におけるアーラヤ識の意義はきわめて大きい。

第19回光明学園親子別時念仏会

佐藤 蓮洋

◇日 時:7月20日(土)~7月21日(日)
◇会 場:光明学園相模原高等学校(修養室)
◇導 師:山上光俊上人(島根県・向西寺住職)
◇維 那:森井明攝尼(関東支部役員)
◇参加者:41名 *光明会関係の参加者:25名(大人19名、子供6名)*学園関係の参加者:16名(演劇部11名、教諭2名、卒業生2名、子供1名)

 親子別時の歴史は長く、光明学園高等学校で開催され親子別時として、今年で19回目。
 今年は、親子別時の「顔」である植西武子さんが背骨を傷めたため欠席されたことが大変残念でした。
 受付け後の昼食時には、ご公務の大変忙しい合間を縫って光明学園清水尚人校長先生からご挨拶をいただき、温かくお迎えいただいたことを大変ありがたく思いました。

〈親子別時ならではの家族紹介〉

 花岡こうさんと遠藤由起さん。森井明攝さんと隆光さん、光さん、あかりちゃん、陽子ちゃん。田代悦子さん、明彦さん、康彦さん、華さん。金田美幸さん、幸那ちゃん、隆聖ちゃん、美慈ちゃん。伊藤力さんと旭栄さん。鳴海理容子さんと裕太さん。6家族の参加をいただきました。お念仏の傍らで昼寝するお子さんをみて、年齢を問わずに、祈りの場に身を置くことの大切さを思いました。

〈山上上人のご法話〉

◆弁栄聖者のご生涯を偲んで・・・「弁栄聖者 その生涯と宗教」(70回忌記念)ビデオを鑑賞◆
私は17歳のときに、全人類に開かれた宗教として光明主義に出遭いました。弁栄聖者は一点の私心もないご生涯であり、多くの方にお手紙を通じて思いやりと愛を実践されたご生涯でした。米粒名号も何が書いてあるかと不思議がる人が、声をだして「なむあみだぶつ」と声に出すことで、如来様とその人を繋げ、如来様がその人を救済する機会になるのだとおっしゃった。如来様の御教えと、如来様の実在を伝えたい一心で生涯を貫かれ、本当に如来様の実在を信じた方でありました。
◆子供に向けて・絵本の読み聞かせ◆
絵本は、大きなスクリーンに映しだされます。子供はもちろん、大人の方も楽しんでください。
1『きょうりゅうたちがけんかした』 恐竜たちが大げんか。ちゃんと「ごめんね」できるかな?けんかをしても、最後は仲直り。許しあうことの大切さを知ってほしい。
2『うみきりん』 背が一万メートルもある海に住むフシギな生き物「うみキリン」。うみきりんの食べ物は、海のゴミ。沢山のゴミを食べて、海を綺麗にしてくれる。きりんに御礼をいわなければなりません。いま、プラスチックごみなどを投棄して海を汚しているのは誰かな?
◆弁栄聖者の「愛の実践」に着目を◆
弁栄聖者を語るとき、知的な面を強調される方が多いですが、お伝記を読むと、弁栄聖者のお傍にいると、極楽にいるような心持になったといわれる方がいたり、全然偉そうではなく、お兄さんみたいな優しくにこやかに接してくれたと書かれています。アリの行列のお話にも、アリ一匹も傷つけてはいけないと道を変えられたという慈しみの言動があり、また悲しみの中にあった人には、全身全霊でこころを傾け、お話を聴かれた。このような弁栄聖者の思いやりの愛の実践にもっと着目していかなければならないと思う。
 今、世界はいろいろな宗教があるが、形式が残り、中身が薄れている。弁栄聖者は、人間の三つの性能として天性・理性・霊性という、人間そのものがより豊かになっていく道筋を説かれている。宇宙で起こっていることと、私の中で起こっていることは因果関係で繋がっている。このことを人類で初めて発見され、いのちの根源とは何かを明確にしてくださったのが弁栄聖者です。法則は発見できるが、その法則をあらしめているものはわからない。しかし、弁栄聖者は「これらの法則をあらしめているものが阿弥陀様ですよ」、と明確に答えてくださった。
 岡潔先生は、礼拝儀に全宇宙のことが書かれ、阿弥陀様の十二光のはたらきによって、全宇宙の法則は説明できると言われた。光明主義は、如来光明礼拝儀を中心に、こころを一つにしていくのがよいのではと思う。
 弁栄聖者は全人類にむかって霊性開発を説かれ、全宗教の本質をズバッと述べられている。異なる宗教の形式ではなく、人間が持っている霊性が目覚め、開発されていけば平和の道が開ける。弁栄聖者の教えは、普遍的は原理に沿っている。
*この時間は子供達は校舎内見学、仏画のぬり絵等を楽しみました。

〈献灯式の誓い〉

 暗闇の中で一人ひとりが阿弥陀様の前に額ずき、捧げる1本のローソク。山上上人より「・・・子供一同 至誠をこめて 仏前に みあかりを献じ奉る。願わくは 今より後 益々恩寵を蒙り 明るく 正しく 仲よく 多くのはらからと共に 仏子として 聖意に叶うはたらきを為さしめ給わんことを」と表白を拝読されました。

〈遠藤由起さんのお話〉

 椎尾弁筺上人(増上寺第八十三世ご法主)が子供の時からお念仏をさせたいというお気持ちでお探しになったのが長野県鉢伏山。多くの方の努力により、紫雲荘(道場)が建設されました。私は母に連れられて兄と一緒に参加したのが、小学校1年の昭和38年夏でした。今回参加されている小川さんと出会い、その後大きくなって、子供の世話をしましたが、その時の子供が鳴海さんです。その後、私は子供を連れて参加し、鳴海さんに子供の世話をしてもらいました。この親子別時はこんな長い歴史の中でみんなが繋がっている。人が人を大切にして大事にする。これからも親子別時が続くように、こころを繋げていきたいですね。

〈光明学園の協力に感謝して〉

 今年も伊藤先生、下口先生、茅原田先生そして演劇部の部員の方が参加されました。全体的な進行、写真撮影、お食事・お布団の準備、そしてちびっ子のお世話をいただきました。
 また、5年前に卒業したという二人の卒業生が、お子さんをつれて修養室に来られ、飛び入り参加され、懐かしそうに一時を過ごされました。各教室に阿弥陀様のお写真があり、お十念が学園生活のなかに溶け込んでいる雰囲気の中で育まれたことが自然と伝わってくるようでした。

〈お数珠づくり〉

 森井明攝尼のご指導により、今年は茶色の玉と透明の玉を組み合わせて作成しました。最後の結び目つくりが難しいようでしたが、隣の人と協力し合って、助け合いながら完成しました。「やった!」と満足の声も聞こえてきました。

〈ちびっこの活躍〉

 食事の時に、お手伝いをいただきました。オボンにごはんを乗せて、一生懸命にお運びをする姿は微笑ましくもあり、また、はらはらすることもありましたが、皆さん、温かい目で見守りながら、「ありがとう」という言葉を伝えられました。ちびっ子の眼が輝いていたことも嬉しいことの一つです。

〈来年も元気でお会いしましょう〉

 閉講式では、伊藤支部長より参加者へのお礼と関東支部の役員・関係者の紹介があり、来年も多くの皆さんと一緒に20回目の親子別時でお会いしたい旨のお話がありました。
 働いているお母さまが、なんの気兼ねもなく、お念仏に集中でき、子供さんも多くの温かいまなざしで見守られている経験ができる場はとても大切であると思います。親子に限らず、どなたでもご参加いただけることをもっとPRして、光友を増やしていきたいと思います。

感想文より

・いっぱいあそんで、おしえてもらってたのしかった。またらいねんもきたいです。(7歳)
・たのしかったから、またやりたい。またきたい。(7歳)
・僕はもう2年間、毎年開かれる親子別時に参加しています。今、考えてみれば、色々大変なことが多く、正直めんどくさい事もあります。でも、参加している人たちの気づかいがおもしろくて、タメになる大人たちの話を聞くのは、とても楽しいです。また、機会があれば参加したいです。ありがとうございました。(17歳)
・月日ははやいもので、いつの間にか子供の立場で来ていた自分も、子供を連れて来る立場になり、その子供も今年から大人料金になり、今年で成人をする。目新しい子供達が増え、また古くからの同志が仏の元へ召されたりもする。時の流れの中に諸行無常を感じました。けれど繋がっていますね。(49歳)

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