一行三昧会
佐藤 蓮洋
◇日時:令和元年11月3日(日)午前9時~午後3時
◇会場:光明園
◇ご講話:大南龍昇園主
◇参加者:13名
光明園の玄関前の紅葉も色づきました。大南園主のお導師により、午前9時前からお念仏会は始まり、正午までお念仏・礼拝儀・聖歌をお称えしました。午後はご法話、聖歌、お念仏、ご回向をいたしました。
大南園主からは、『機縁のままに』と題して、次のご法話をいただきました。
時と人のめぐり合わせ
「機縁」という言葉は、中村仏教辞典では、時機因縁の略だとあります。時と人のめぐり合わせということです。実は、このことばを使って講話をされたのは藤本浄彦先生でして、相模原光明学園での法のつどいで「私の中の弁栄上人」というお話をいただいた時でした。藤本上人が弁栄上人・光明主義とかかわりを持ったそういうあり様を「機縁」という言葉を用いてお話になった。先生は小さい時から礼拝儀をお称えする声を子守唄のようにして育ち、浄土宗の宗学者・布教師である藤本浄本上人を、お祖父さんとされた。浄彦先生も宗教哲学・浄土学の研究者として、また一方で念仏者として、お祖父さんの薫陶をうけて成長された、とお話になられました。お祖父さんの機縁というものが、先生の生涯を決定づけ、素晴らしいご縁を持って現在に至っているわけです。
光明主義というのは、聖者が創唱されたものですが、それがお弟子を経て、二つの生き方、内容に分かれて発展してきたということを、志村念覚上人の論文を読んで教えられました。見仏成仏派(笹本戒浄上人)と安心往生派(藤本浄本上人)の二つの流れです。藤本先生のご講話の中でも、弁栄聖者以降の光明会の流れというものを取り上げながら、ご自身の弁栄聖者に対する思いをお話になりました。大変中身の濃い、素晴らしいお話でありました。これからは、このお話にヒントというかきっかけとして、お話をしたいと思います。
阿川貫達上人との機縁
お配りしましたプリントの一枚目に阿川貫達上人の略歴を書きましたが、赤坂にある浄土寺のご住職でした。二枚写真がありますが、上の写真(左掲載)は、大本山増上寺御忌会で、八王子極楽寺の小澤勇貫上人と撮影したものであり、下の写真(次頁掲載)は、大正大学教授時代のもので、退職まで改良服で通学されました。阿川上人がお亡くなりになり、一周忌にご縁のある方やお檀家さんを中心にして『白道ひたすらに』という本が刊行されました。このタイトルは、善導大師が火の河、水の河に挟まれた白い道を渡って、対岸の極楽浄土に行くということをわかりやすく説いたお話が元になっています。貫達上人が、この白い道をひたすらに貫き通したことが、冊子から伺い知ることができます。
二枚目と三枚目の写真は、八王子にある極楽寺さんが所蔵されている観音様(下掲載)のお絵像と弁栄聖者が指先で書かれた指頭書です。このほかにもう一つ観音菩薩の小さなお像が極楽寺さんに伝わっています。この極楽寺さんの今のご住職の小澤憲珠先生は私の大正大学の一年生からの友達ですが、ご先代がお父様の小澤勇貫先生です。
私は、以前、ひかり誌において弁栄聖者のご縁を紹介させていただきましたが、私の父が新潟県柏崎の極楽寺さんの小僧をしていた時のご住職のお兄さんが、青森県八戸の天聖寺という大きなお寺のご住職でした。そのご住職は私の大学の大先輩であった方なのですが、それがご縁で合縁機縁、私が千葉のお寺を継ぐことになります。いままで、新潟・柏崎と青森・八戸のご縁の事ばかりを考えていたのですが、実は、今、私が千葉のお寺に入ることになった要因は阿川貫達上人のご縁であったことに、80歳近くになってようやく気付いたわけです。今からお話をしますが、しみじみと、あ~貫達上人がいらっしゃらなかったら、現在の自分はいないな・・・と、気づかされたわけです。これも機縁ですね。
「弁栄聖者の墨蹟仏画集」から
百回忌の記念事業として金田昭教上人を中心に千点もの作品が、『墨蹟仏画集』としてまとめられ、弁栄聖者の背後・背景にあったさまざまな活動・出来事・歴史事象としての光明世界といったものが、金田師の「解説」として描き出されています。佐々木有一先生の言葉を借りれば、田中木叉上人の『日本の光』は弁栄上人を中心とした内伝であり、『墨蹟仏画集』は外伝であると指摘されましたが、ここに弁栄聖者の全体像が与えられたわけです。そこで、この墨蹟集から二つの作品を取り上げてお話をしたいと思います。
まず、前述した極楽寺さんが所蔵されている「洒水観音菩薩像」(6頁 No.67図)です。この解説文に登場する金山弁寿尼は、八王子刑務所の職員として女性囚人の更生のお手伝いをされました。これは弁栄聖者が尼に社会的な活動をお勧めになったことによるのです。また、この極楽寺のご住職・小澤憲珠上人の先代・小澤勇貫上人のお師匠である阿川貫珠上人は大変弁栄聖者を崇拝しておられました。光明学園の母体となった当麻山無量光寺のご法主に弁栄聖者をご推挙されたお二人(島田良彦上人とともに)の一人でもありました。学園創設の一番の役割を果たしてくれたという敬意を込めて、この素晴らしい観音様をお書きになられたことと思います。貫珠上人はお弟子に貫の字をつけられていますが、一番兄弟子の貫達上人は極楽寺に入られますが、後に弟弟子の小澤勇貫上人に譲られ、ご自分は赤坂の浄土寺に入られました。
次に、「栄指頭書」(62頁 No.68図)です。この書は、極楽寺の信者さんに弁栄聖者がお書きになったもので、その後極楽寺さんに納められました。小澤勇貫上人の弁栄聖者の思い出は、解説文にもあります。今の八王子駅のようにたくさんの乗客はいなかったとは思いますが、駅構内までお送りした勇貫上人に弁栄聖者が大きなしっかりとした声でお十念を授けてくださったのは、恥ずかしいことでもあったというのです。勇貫上人は『選択集講述』を著述され、大学でテキストとして使用されていましたが、その仏身論は弁栄聖者の影響を受けた光明主義の表現と解釈であることを金田上人も解説文に指摘されています。
同頁に大本山増上寺の戦後第一回目の御忌大法要の記念写真がありますが、中央の唱導師が平野諒栄上人であり、右側の侍者は小澤勇貫上人、左側は弁栄上人のお弟子の弁成上人です。平野上人は極楽寺の阿川貫珠上人と共に弁栄上人を無量光寺に迎え入れるようにご尽力をされた方です。後に相模原光明学園の校長先生になられました。(大南園主から確認された伊藤支部長は、「光明学園を探しているところ、偶然に平野校長と出会ったのが、学園入学の縁となった」というエピソードをお話になりました。)
念仏者としての阿川貫達上人と「和楽」の境涯
先に阿川貫達上人のご紹介をさせていただきましたが、今度は私のお仲人をしてくださったお話です。私も貫達上人の浄土学概論を授業で受け、また伝宗伝戒道場で相承を受けました。上人は25歳の時に事故にあわれ、目を悪くされました。前述した「白道ひたすらに」の中に、中村康隆上人が登場しますが、この方は、大正大学の学長をされ、その後浄土宗門の管長(門主)さんになられた方です。この康隆上人は静岡県清水の実相寺の子弟として生まれましたが、実相寺に弁栄聖者がおいでになって五重相伝やご説法をされたこと、唐沢山別時に弁栄聖者のご指導のもとでお念仏をされたことをいろいろなところで書かれています。また、弁栄聖者にお会いした時の感銘に勝るとも劣らない感銘を阿川貫達上人から受けたとも書かれています。貫達上人は28歳の時に志願して近衛歩兵連隊に1年入隊。朝食のご飯を少しお皿にとられ、餓鬼にご飯を与えるサバという作法をされたり、皆が寝静まった後に、お念仏をしながらトイレ掃除をされたそうです。憲珠さんは、「貫達上人はお念仏がすきなんだよね」と言っていましたが、毎朝、お念仏とお檀家のお亡くなりになられた方の戒名を読み上げてご回向をされ、2、3時間勤行をされる。亡くなられた方も、貫達上人に毎日のようにご回向をしていただいていれば、死んだ人がそのまま生きている、そういう境涯になっていくのではないか、亡くなった人と一つになってくる体験をされるようになると思います。
奥様のお話では、せっかくお檀家さんからいただいたアサリを勝鬨橋から放流してしまうとか、殺生を好まなかったエピソードもあります。また、若いお坊さんのお話では、ある時、施餓鬼会のお塔婆を跨いでしまったときは、貫達上人に「待ちなさい」と呼び止められ、厳しく諫められたそうです。また、お弟子に炭に火がつくと、炭の暖かさで、どんな人も暖をとると、炭と火のお話をされたそうです。お念仏をとおして、如来様の光に遭うことで人から慕われ、人を幸福にすることができるようになる。これは、弁栄上人がされた有名なお話ですから、貫達上人は聖者からお聞きになられていたお話をされたのでしょう。
さて、私と赤坂の浄土寺のご縁は、大学一年生の時に、お寺で毎月20日にお別時をされていると伺い、3年近くお念仏に通わせていただきました。貫達上人は、本堂に上がりっぱなしで、お念仏を続けていらっしゃいました。どのようなご縁か忘れてしまいましたが、今私がおります千葉の湊済寺は海まで歩いて10分のところですので、阿川上人のご家族と小澤上人のご家族が夏休みに海水浴に来られました。その時に湊済寺の娘さんと私を見合わせたらどうか、という話になったのではと思います。そこで、お仲人をしていただいたのが、阿川貫達上人という訳です。
最後になりますが、貫達上人はお念仏によっていただく世界を「和楽」と表現されていました。和(なごみ・平和)と楽しみ・喜びと説かれ、念仏を称えられる子供を育てたいという、浄土宗の教えの具体化として幼稚園を経営されてもいました。椎尾弁匡先生が阿川さんの和楽は共生と一緒であると言われ、浄土宗の現代的な意味のある主張であると褒められていたのを憶えています。では、光明主義はどうかといえば、「光明の生活の中で、光明家族がお念仏によって生まれる」ということであると思います。
家庭がなごみ、楽しく過ごす。浄土に生まれるまでの生きている間に、お念仏によって「和楽」が与えられるということを、貫達上人から教えられたわけです。
一行三昧会
佐藤 蓮洋
◇日 時:令和元年12月1日(日)午前9時~午後3時
◇会 場:光明園
◇ご講話:大南龍昇園主
◇参加者:7名
師走に入り、光明園の庭の柿の木には小鳥が集まり、囀りながら赤く熟した柿の実を啄んでいました。柿の木が伸びたこともあり、多くの実が取り切れずにいたことは残念でしたが、小鳥の餌となりいのちを支える一助ができよかったと思います。
大南園主を導師として、午前9時からお念仏をはじめ、途中で礼拝儀と聖歌を称えて、さらに正午までお念仏を称えました。午後は、ご法話の代わりに、12月4日に祥月命日を迎える弁栄聖者を偲んで、礼拝儀にある「弁栄聖者御略伝」を大南園主が拝読されました。弁栄聖者のご生涯をたどりながら、聖者のご精進、お念仏巡教の布教活動、無私の施しなどに改めて胸を打たれました。略伝の最後に「・・・弁栄聖者のご一生は、如来光明のさながらの反映に在せば、誰か大慈悲の霊応を仰がざらん。誰か光明の摂化を信ぜざらん。」の結びの言葉につづき、大南園主から「さあ、皆さん、お念仏を続けましょう」とのお言葉をいただき、三昧仏様を仰ぎながら、お念仏をお称えさせていただきました。聖者のご回向の後に茶話会を行いましたが、のどを潤すお茶が大変美味しく感じられました。
念仏と法話の会
花輪 智之
◇日 時:12月15日(日)
◇会 場:光明園
◇ご講話:近藤伸介師
◇参加者:数名
今年は弁栄上人百回忌ということもあり、様々な記念行事とともに、忘れられない一年になったのではないかと思われます。最後の締めくくりとして、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌をお称え、ご回向を行いました。
また、近藤伸介講師から「ベトナム戦争」について講義をいただきました。
風化してはならない負の遺産と向き合うとともに、ふと、故G馬場に対するブッチャーの「偉大なる故人を偲ぶ際、名も無き人々の悲惨な死にも思いを馳せなければならない」
という追悼の言葉が頭をよぎりました。
ベトナム戦争について
- 1 ベトナム戦争とは
- ベトナム戦争(1960~1975年)は、ベトナム民主共和国(北ベトナム)の社会主義陣営とアメリカ・ベトナム共和国(南ベトナム)の資本主義陣営との戦争である。戦死者がアメリカ人6万人弱に対して、ベトナム人約115万人と数字が物語るよう、アメリカの参戦は、ベトナムに苛烈な災禍をもたらす事になった。
- 2 アメリカ国内の動き
- 一方、アメリカ国内では、ベトナム戦争に対する抵抗が重低音のごとく鳴り響いていた。
○モハメドアリ 1967年、ボクシングヘビー級王者モハメドアリは徴兵を拒否し、王座を剥奪された。彼の言葉は、為政者が目を背けている現実の告発として突き刺さるものがある。「自分を含めたいわゆるニグロがなぜ、1度もアメリカ人を困らせたことのない無実のベトナム人を空爆しなければならないのか?はっきり言おう。答えはNOだ、俺は(戦争に)行かない」「権力のある白人男性によって人間を殺す道具として俺は使われたくない。そしてあなたも、特に貧しく、そして黒人の場合は使われるべきではない」
○ジョンレノン 1969年、タイムズ・スクエアに「WAR IS OVER!(IF YOU WANT IT)」と書かれた巨大な看板を出したが、そのメッセージは定番のクリスマスソングである「HappyXmas」(71年)の”War Is Over”というコーラスに結実した。 - 3 戦後の影響
- ○枯葉剤による障害児の出産
ベトナム政府によるとアメリカ軍が散布した枯葉剤の被害者は300万人に及び、現在も100万人が苦しんでいるという。ただし、アメリカ当局は、枯葉剤との直接の関連を認めることはなかった。
○帰還兵のPTSD(心的外傷後トラウマ)
海兵隊員として、ベトナム戦争の前線で戦ったアレン・ネルソン氏は、帰国後、PTSDに苦しむが、立ち直って日米両国で精力的に公演活動を行う。
時には女性や子供も含め、人殺しを強いられる極限状況に追い込まれたリアルな感覚から戦争反対と日本国憲法9条の重要性を訴えた。 - 4 弁栄上人の言葉
- 「人を殺す罪は重い。その内に父を殺し、母を殺すのがなお重い。しかしそれより一層重い罪がある。それは己が霊性を殺すことである。」「人はわずか蚊一匹のために、五尺のからだがとらえられて鬼の心になる。そして蚊を殺したと思っているが、自分の大切な霊性を殺していますね。」