光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和2年3月

一行三昧会

佐藤 蓮洋

◇日 時:令和2年1月5日(日)午前9時~午後3時
◇会 場:光明園
◇講 話:佐藤蓮洋
◇参加者:15名

 令和2年を迎え、門松とお供えのお餅がお正月気分を伝えるお念仏会になりました。午前中はお念仏、晨朝の礼拝、聖歌をお称えし、午後は講話、聖歌、お念仏をお称えし、ご回向を行いました。
 新年早々に講話を担当させていただき、「「光明主義の教え」にあこがれて」と題してお話をさせていただきました。
 私は人間の「心」に興味があり、20代後半からカウンセリングを学び、現在は心理療法を素人ながらグループで学んでいます。一心十界といわれるように心のなんと複雑で、奇妙なことか。自分でもつかみどころのない心に難儀し、苦しむことか。
 弁栄聖者は「人間の一生を通して、統一的主体があり、その主体としての自我の根底は絶対大霊と連絡しているし、個々の人々は、内面において相互に関連し、切れない関係をもっていることは直観される」(『人生の帰趣』P37-P38)と説かれます。
 主体としての自我がくせものであり、直観と言えるのは、聖者の聖者たる由縁のような気がします。私は如来様と直結し、周囲の人々とも内面のネットワークで結ばれている・・・しかし、私には自覚はないし、他人との競合・違いばかりに注目がいく。「如来の光明名号の真理を聞き、如来は霊のミオヤであると自覚したときが、霊の子が産まれた時。そして、真から称名の声を発するようになったのが霊性の産声である」(『お慈悲のたより(中)』P16)と述べられています。そして、「如来という大人格に離れず、愛慕し、信楽して念仏するときは、愛楽する人格に同化して、如来に似合ってくる。そこに宗教の価値がある。人格の向上の動機をもつ宗教が高尚である」(『お慈悲のたより(中)』P140)とされ、如来の人格が私に同化・感染し、私自身が如来に似てきて、人格的に成長していくことができるわけです。さらに、「仏の恩寵と衆生の信仰とに因縁の宗教的関係を結合する」(『お慈悲のたより(中)』P20)と説かれ、私と仏は切っても切れない関係、つまり相互依存の関係にあるということになります。では、真正面のオヤサマと対面し、お念仏を称えている時に何が起こっているのか? そして私の人格が向上するのか、なぜか? そんなことを考えているとき、こんなお話に出遭いました。空海上人の
  空海が心のうちに咲く花は 
    みだより外にしる人はなし
という道詠について、三人の人が、それぞれの感想を述べたという聖者のお話です。「一人のひとは、自分勝手の悪い心、朝から晩まで苦しみ悩みにみたされている。人に訴えてもうわべでは同情してくれても、内心では「愚痴の多い人だ」と思って真実に私の悩みをわかってくれるひとはいない。しかし、たったひとり真から私の悩みにどん底から同情をもって私をあたためて、悶えをあたたかに融合して安らかにかえてくださる方は阿弥陀仏のみです。十方三世の諸仏方は、私達の心の悩みを智慧を以ってあきらかに浅ましき奴かなと照見はしてくださるものの、同情の慈悲を以って知ってくださる方はただ一人、ミオヤばかりです」(『お慈悲のたより(中)』P146)そうなのです。絶対なる安心と安全に包まれるまなざし、そして如何なる場合にも変わらない麗しい御顔に接して、罪悪深重の苦の世界にいきる凡夫である私でさえも、慈悲の御顔にそのまま受け入れられ、安住させていただく。そして、さらに「真に如来を信じ深く愛して如来のみ心を欲みますと、・・・なげきにはなぐさめの声となり、いかりの炎には清き雨となる、うきが中には安かれよとの御手を賜れ、よきことには為せと、いさみてせよ、しりぞくなというようにおもはるる。」(『お慈悲のたより(中)』P8)ようになっていく。すごいですね。ミオヤがなぐさめ、みとめてくれ、はげましてくれる。これは、悩む人と対面している、カウンセラー・心理療法家と同じはたらきをされていらっしゃるともいえるのではないかという気がしています。(これは仮説です)こんなお話をさせていただきました。

     

念仏と法話の会

佐藤 蓮洋

◇日 時:令和2年1月19日(日)
◇会 場:光明園
◇ご講話:近藤伸介師
◇参加者:12名

 庭に可憐な水仙の白い花が咲き、寒さとともに生きる強さを感じます。午前中はお念仏、晨朝の礼拝、聖歌をお称えし、午後はご講話、聖歌、お念仏をお称えし、ご回向を行いました。

近藤講師のご講話

第一部「オリンピックと武道について」
 古代オリンピックの原点は、ギリシャの聖地オリンピアで、主神ゼウスに捧げられた祭りであり、オリンピックを挟んだ3カ月間は、ギリシャ全土で武器を持つことを禁じられた。
 近代オリンピックはフランス人のクーベルタンが平和の祭典として提唱し、1896年に第一回アテネ大会が開催された。その後、第一次大戦により第6回ベルリン大会は中止。1936年(第11回ベルリン大会)は、「ヒトラーの大会」と言われ、ナチス・ドイツの国力アピールの場となった。1940年と1944年は第二次世界大戦により中止。1948年(第14回ロンドン大会)は、日本とドイツは戦争責任を問われ、参加を許されなかった。1964年(第18回東京大会)はアジア初のオリンピックとして、日本が活躍したが、日本のお家芸といわれた柔道の無差別級では銀メダルに終わった。1968年の第19回メキシコシテイー大会以降、人種差別に反対した黒人選手の抗議があり、アパルトヘイト(人種隔離)政策をとっていた南アフリカは1992年バルセロナ大会から復帰した。1972年(第20回ミュンヘン大会)は、パレスチナのテロリストがイスラエル選手団2人を射殺。1980年(第22回モスクワ大会)は前年のソ連のアフガニスタン侵攻に西側諸国が抗議し、日本も不参加。1984年(第23回ロサンゼルス大会)は社会主義陣営が不参加。オリンピックと政治の関係は深い。
 オリンピックはスポーツの祭典といわれるが、「武道とスポーツの違い」はどこにあるか。例とすれば、柔道が1964年に東京オリンピックで採用され、国際化に伴う変化が議論になった。武道としての柔道か、スポーツとしてのJUDOか。大切なのは、精神か勝敗か。「道」を辞典でみると「人として守るべき条理。宇宙の原理。神仏の教え。悟りのための実践。そして、武道の本質は、技術の修練を通じた精神修行。」とある。
 鎌田茂雄は「日本の武道の哲学は、他者との対立をもっとも必要とする戦いの瞬間に、森羅万象を貫く気と一致することを説く」。『弓と禅』で有名なドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルは弓道の師範となるまでの体験を綴った。そこには、理屈で理解することではなく、武道の精神を学ぶことの重要性が説かれている。
第二部「唯識と光明主義(第7講)」について
 今回から光明主義の中核をなす『無辺光』に入るが、後2回の講義となり時間的な制約や、内容がとても難しいこともあり、概観をお話しすることになる。後日改めて冊子にまとめたいと思っている。『無辺光』は四つの章から構成されている。第一章は「大円鏡智」。第二章は「平等性智」。第三章は「妙観察智」。第四章は「成所作智」であり、仏教では「四智」と呼ばれる。この四つの智慧を宗教的事実と科学的事実に照らしながら説明していくという形で構成されている。唯識あるいはキリスト教に関する記述も多いが、単に書物から得た知識というより、弁栄聖者自身の宗教体験に裏打ちされており、とても説得力がある。また、科学に関する記述も頻繁に出てきて、聖者の科学に対する深い関心が分かると同時に、それら科学的事実が宗教的事実の説明のために用いられていることに驚かされる。宗教と科学は決して互いに矛盾するものではなく、むしろ両者は補完し合うものだという聖者の強い信念を見て取ることができる。
次回から具体的に四智のお話をしていきたい。
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