光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和2年4月

一行三昧会

佐藤 蓮洋

◇日 時:令和2年2月2日(日)午前9時~午後3時
◇会 場:光明園
◇導 師:大南龍昇園主
◇参加者:10名

 今年は季節の廻りが早いのか、光明園の梅の花が咲き、蕗の薹が覗いているのに気づき、少し驚きました。冬の寒さに閉じこもっている間にも、豊かな営みが続いていることを有難く思いました。
 この日は、ご講話はなく、午前中はお念仏、晨朝の礼拝、聖歌をお称えし、午後は聖歌、昏暮の礼拝、お念仏をお称えし、ご回向を行いました。9時前からのお念仏の開始でもあり、時間を忘れ、たっぷりとお念仏に集中することができました。大木魚は伊藤様、小西様そして聖歌の伴奏は岩下様に分担していただきました。毎回、皆様にご協力をいただきながら会を進めることができ、感謝しております。
     

念仏と法話の会

佐藤 蓮洋

◇日 時:令和2年2月16日(日)
◇会 場:光明園
◇導 師:大南龍昇園主
◇ご講話:近藤伸介師
◇参加者:11名

  新型肺炎の感染に対する不安が広がり、外出を控える動きも見られる中、光友の参集は絶えませんでした。今回も滞る事なく、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌をお称え、ご回向を行うことが出来ました。また、近藤伸介講師から「唯識と光明主義」について講義をいただきました。

唯識と光明主義(第八講)

大円鏡智とアーラヤ識
唯識では、大円鏡智はアーラヤ識が転じて生じるとされ、清らかな円い鏡のように一切のものをありのままに映し出す智慧とされる。前五識、意識、マナ識がアーラヤ識から生じるように、それらが転じた成所作智、妙観察智、平等性智もまた大円鏡智から生じるとされ、大円鏡智は一切の事象が発現する「根本智」とも呼ばれる。
『成唯識論』が語る大円鏡智
『成唯識論』には、大円鏡智は金剛瑜定(修行の最終段階)に至って初めて現実に働き、最も微細で最後まで残っている所知障(智慧の働きを妨げる無知)とともにアーラヤ識の種子も捨てられ、最終解脱を成就するという記述がある。また、対象をありのままに映し出す智慧である大円鏡智の特徴として、諸々の分別を離れていること、微細のものを見逃さず、認識において誤りがないこと、清浄であり、煩悩から離れていること、アーラヤ識と同様、一切の現行識の依り所であることが語られている。
分別という知力の限界
大円鏡智の特徴の一つに「諸々の分別を離れていること」が挙げられるが、仏教では、修行において解脱を目指す際にも、分別は捨て去るべきものであり、逆に「無分別」は真の智慧であり、解脱へ導くものとされる。ブッダは、区別や分析といった知的分別の働きをすべて放棄した所に現れる無分別の智慧によって心の本性を把握し、苦しみの根本原因である無明を発見した。そして、その苦しみを克服する方法として、伝えられた「八正道」もまた、無分別による道であった。
ベルグソンが語る直観
哲学者ベルグソンは、「生命の本質を知るには、直観の中に身を置かねばならず、直観から知性に移行することはできても、知性から直観に移ることはできない」と、知性に対する直観の優位性を語った。ベルグソンにとって、哲学の根本的な方法は直観であり、その目的は「観想する」ことであった。それは、まさに仏教で「ヴィパッサナー(観)」という瞑想法であり、ただ対象を純粋に眺める無分別な知力と言え、直観に基づくベルグソン哲学は、仏教的・唯識的な要素を多分に含んでいる。なお、ベルグソンは哲学的→芸術的→神秘的という重層構造により、直観の深まりを表現している。
弁栄上人の語る唯識は、伝統的な唯識を踏襲しつつも、「弁栄唯識」と言える独自性がある。次回、『無辺光』が語る大円境智からその独自性を見ていきたい。
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