光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和2年6月

一行三昧会

佐藤 蓮洋

◇日 時:3月1日(日)
◇会 場:光明園
◇導 師:大南龍昇園主
◇講 師:佐倉 聡氏
◇参加者:10名

新型コロナウイルス感染防止のために、受付けにアルコール消毒液を準備しての念仏会になりました。午前中はお念仏、晨朝の礼拝、聖歌をお称えし、午後は聖歌、ご講話、お念仏、ご回向を行いました。
 佐倉講師は、今朝、事前に準備されたお話を新型コロナウイルスに関係が深い疫病・感染病などの自然災害のお話に急遽変更されたとのことでした。茶話会ではコロナ禍により、今後例会の開催も危うくなるのではという話題もありました。佐倉講師が実際のご講話に補足していただいた内容により、コロナウイルスの不安や恐怖を克服するために、一人一人がお念仏をお称えすることの大切さを改めて理解しました。
     

「コロナ禍とお念仏」

佐倉 聡

◆自然災害と歴史

 災害というと東日本大震災を思い出します。震災前は、平成の大不況の時でもあり、世相がどこか荒んでおりました。奉職していた神社の七五三祈願では、順番を待っている方が、待ち時間が長いと社務所に怒鳴り込んできたり、手水舎の柄杓を幾度もきれいに並べ直しても、その直後には何本も水面にプカプカと浮いている状態が日常的に見られました。しかし、東日本大震災後は、境内で大声を上げる人もいなくなり、参拝者が互いに他を思いやる暖かい配慮が見受けられるようになりました。恐らく、多くの方々が津波で親や子を亡くされた被災者の姿を見て、思い遣りの心の大切さに気付き、世相が大きく変化したのだと思います。この度の新型コロナウイルスの感染拡大が終息した時、世相はどのようになっているのでしょうか。
 さて、新型コロナウイルスの感染拡大は、伝染病の蔓延とも言えます。そしてこれは歴史的に見ると人の命を奪う自然災害として、当たり前のように頻発していました。日本全国の神社の裏手には疱瘡神(天然痘の神様)がお祀りされているのをよく見かけますが、この民俗信仰の源流は、京都の八坂神社の祇園祭なのです。祇園祭は、夏に悪い病が京都市中に流行らないように神様をお祀りするものです。昔の人々が伝染病の流行を何とか押さえようとした思いが、そのお祭りの盛大さから、よくわかります。
 それでは、伝染病が蔓延した昔の生活は、どのようなものだったのでしょうか。
 良寛様は、新潟県国上山の五合庵に住んでいらっしゃいました。麓の里から小学生ぐらいの兄弟が、良寛様のもとへ日常品を毎日届けておりました。麓の里では天然痘が流行っていて、多くの人が亡くなっていると兄弟から聞いた良寛様は、くれぐれも健やかに元気でいてくれるようにと、幼い兄弟に声を掛けられました。翌日、五合庵に来たのは兄一人。聞いてみると、弟はその夜、天然痘で亡くなったとのことでした。突然のことに、良寛様は大変悲しまれた。
 そんな良寛様が、「災難にあう時節には、災難にあうのがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ、災難をのがるる妙法にて候」と巨大地震の見舞状に書いておられます。私が若い頃にこの一文を読んだ時は、目が点になってしまい、そういうものなのかなと考え込んでしまいました。今では、自然の大いなる力の前では、私達は無力であり、その場に立ち尽くす他ないと、しみじみと思うようになりました。
 江戸の中ごろに浅間山の大噴火がありました。この噴火音は、遠く離れた三重の松坂に住んでいた本居宣長に聞こえたそうです。噴火後は、気候が寒冷になり、作物ができず、農民が困窮しました。こうした状況を憂いた紀伊藩のお殿様に請われて、宣長は政治指南書として『秘本玉くしげ』を書きますが、その中に「天災が起き、百姓が苦しむのは、政治が悪いからだ」とはっきりと述べています。
 また、宣長と同時代人の慈雲飲光尊者も同じ噴火音を聞いています。尊者は、「人間の心のあり方が悪くなると、それが自然の世界に感応してしまい、自然災害が発生する」とおっしゃっています。まさしく、悪い意味での感応道交ですね。おそらく、自然界と私たちの心は通じ合っており、悪いことも感応してしまうのではないか、と私は思います。
 私が神職をしていた時に、奈良県大峰山で修験の修行をしている山伏の知人がいました。彼は高校時代から修行をしていましたので、中年になる頃には大先達という最高位の山伏になっていました。本業は、室内の装飾業を営んでいて、社務所の内装でもお世話になっていました。そんな或る日、木曽御嶽山の大噴火があり、多くの登山者が亡くなられました。彼は、「お山が怒っていらっしゃる。私はお山に謝りに行かなければいけない。だから、お山に籠もる」と言い出したのです。中・高生のお嬢さんがいたこともあり、止めたのですが、行ってしまいました。その後、彼は山籠もりの最中に、崖から落ちて亡くなりました。自分の命を捨てて、お山にお詫びをしようとしたのかもしれません。そして、この悲しい出来事は、彼と自然が一体不二であるからこそ起こったことなのだと、しみじみと思ったのです。
 浄土宗では、あまりこうしたアニミズム的世界観のことは言いません。しかし、時宗の祖一遍上人は、「山伏姿」の熊野権現より「一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信をえらばず。浄不浄をきらはず。その札をくばるべし」と夢告を受け、開眼なさった方ですし、その生涯の果てには、「よろず生きとし生けるもの、山河草木、ふく風たつ波の音までも、念仏ならずということなし」という深い自覚と自然観にたどり着かれた方です。弁栄聖者も時宗当麻派のトップをつとめた方ですので、今後は、聖者の教理から、宗教学的にはアニミズム的な自然観を、仏教学的には重重無尽の自然観を、そして、哲学的には万有在神論の自然観を探求して行くことが必要であると思います。

◆愚に帰る、凡夫の自覚

 自然の怒りに対して、人間が申し訳ないと思う。こうした思いを昔の日本人は持っていました。例えば、幕末の国学者鈴木重胤は、京都から江戸に行く途上、浜松付近で大地震に遭遇しました。立っていられないほど強く地面がゆれ、津波も発生しました。重胤は、地震の直後にお寺や神社に集まって、多くの人々が境内でお祈りをしている様子を書き残しています。人間の計らいを超えた知力では及ばない宇宙の動き、天体の巡行、そして自然のとてつもない大きな動きに対して、古人のように心より頭を下げて祈ることを現代人は忘れています。
 伊勢神宮の式年遷宮のパンフレットにビートたけしのインタビュー記事が掲載されていました。「われわれ人間は賢くなった、科学は自然界のすみずみまで謎を解いたというけれど、米粒一つさえ何もないところから我々は作り出すことはできない。まさしく、われわれは生命それ自体をつくることなどできないではないか。われわれ人間は自然からの恵みによって、生かしていただいているというほかない。ありがてぇ、ありがてぇと言って、ありがたがって生きてればいいじゃないか」と。
 最近の宇宙物理学では、宇宙の約90%は未知であると「科学的に」証明されました。すなわち、私達は本当に宇宙や自然のことを何もわかっていないことが明確にわかったのです。しかし、私達は生きている。宇宙の中で、現に日々生かしていただいている。よくわからないけれども、宇宙の本体である阿弥陀様のお陰で私たちは日々生きて行くことができる。だからこそ、私たちはありがたがって生きるほかないのです。
 ありがたがって生きるとは、宇宙の前での人間の無力と無知の自覚に他なりません。法然上人の還愚、凡夫の自覚は、現代では宇宙と自然の前での無力と無知の自覚とも言えます。私達は何もできない、何も分からないという深い反省、深い自覚こそが、これからの時代の宗教の核心に必要であると思います。そして、お念仏を称えていくことで、少しでもオオミオヤである阿弥陀様から力を得て、日々の心を清めて生きて行ければと思います。

◆(補足) なぜ、いま、お念仏なのか

 自然科学的な知識やそれに伴う技術の進歩は、目覚ましいものがあります。それ故に、私たち凡夫は、宇宙や自然界の仕組みを人類は深く理解していると錯覚しがちです。しかし、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を前にして、私たちは宇宙と自然に関して無知にして無力であり、しかも社会的な制度や仕組みも不完全であることを、はっきりと目撃しました。
 そもそも、現代の自然科学は細分化されており、これに付随して科学技術も分野ごとに分かれながら膨大な領域に発展しています。これらの細分化された科学や技術は、個々の領域の専門家だけが理解することができ、開発と操作ができるものです。私たち一般人は、こうした成果を正確に理解できず、操作することもできません。しかも、それらが日々の平凡な暮らしの中に、あっという間に導入され、人間にとって良いものなのか悪いものなのか、倫理的にも正しいのか、間違っているのか判断することさえできません。
 数百年前のレオナルド・ダ・ヴィンチやゲーテのような万学の天才は現代では生まれようがなく、私たちは法然上人が嘆かれる「三学非器」どころか「万学非器」の愚者の状態にあると言えます。
 ルネサンス以来、科学と技術を発展させることによって人類の幸福を増進させようと、多くの科学者や技術者が人生をかけて努力してくださいました(フランシス・ベーコン)。そして、その恩恵は深く、広いものと思います。しかし、こうした科学や技術によって人類の幸福を増進できるのは、一部の限られた人だけなのであり、まさしく「学的聖道門」と言えます。
 凡夫である我々一般人は、科学や技術のカヤの外にありながら、その成果だけがカヤの外に知らぬ間に溢れ出てくる状態にあります。「学的聖道門」は、一般人にとっては「時機」にかなわないものであり、一般人には一般人に適した宇宙や自然にかかわることができる「易行」が求められなければならないのです。
 とりわけ現在の世界は新型コロナウイルスの感染が拡大し、普段は決して見て見ないふりをしている「四苦」に、私たちは嫌でも直面せざるをえません。日々の生活、生計の不安、ウイルスに感染する不安、高齢者や障害者が行き場を失う不安、世界的に増加する死者の人数を知る恐怖。これらの不安や恐怖に一般人である私たちは学的聖道門によって対処することはできません。ましてや宇宙と自然のほんのわずかの領域しか解明できない学的聖道門では、四苦の根幹にある不安と恐怖に対応することはできないはずです。
 さらには学的聖道門の専門家や自称専門家によって流される数限りない情報によって四苦を克服しようとする一般人は、かえって四苦の泥沼に陥ってしまいます。私たちは、今こそ学的聖道門ではない、宇宙と自然との関わり方を実践しなくてはならないのです。
 宇宙の本体である阿弥陀様は私たち凡夫のために「易行」であるお念仏を選んでくださいました(法然)。凡夫である私たちは四苦の泥沼に陥らないために、数限りない情報を捨て去り、お念仏に専心することが大切です(一遍)。そして、お念仏によって宇宙全体に心が開かれ、自己の命の尊さに目覚めることが、今この時にこの場で「現に」行うべきことなのです(弁栄)。
 「捨てる」ことにより、「選ばれたもの」に徹し、現に命に「目覚める」。まことに、ありがたいことです。

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