光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

光明園だより 令和3年2月

第十二回光明園別時念仏会・弁栄聖者報恩念仏会(関東支部後援)

花輪 智之

山上上人ご講話       
【山上上人は48日間の単独別時を決行する念仏の求道者にして、永年、教誨師と布教師を務め、一人一人の人生に向き合い念仏のありがたさを伝えて来た伝道者です。山上光俊上人のご講話について報告させていただきます。】

「み光の花束」

誰が南無阿弥陀仏を称えるのか?
南無阿弥陀仏を称えている自分、その”自分”が中々とれない。真正面にまします三昧仏様をしげしげと見つめ、「三身即一の如来よ」と呼びかける時、だんだんとお慈悲の眦を下げて見つめてくれる救済のまなざしを感じられようになる。呼んで呼ばれての呼応関係の中で、阿弥陀様と一体となっていく。阿弥陀様が救いたい、守りたいとずっと思っていてくれた事に、はっと気づかされる時、自力から他力へと心が方向転換する。そして、心念口称の念ずる心が深まり、念仏するのが楽になる。そこに阿弥陀様の御働きがある。礼拝儀は如来様が目の前に在すことの実感で書かれている。
大ミオヤの親心
大ミオヤのお慕い申すには、親心を理解することが大事。親は決して子を見捨てず、一日たりとも子を忘れる事はない。人類の進化とともに心が進化し、自分以外の他者や社会を愛せるようになるのは、如来のお育てのみ光のおかげ、同体大悲(おもいやり)の愛が一人ひとりに注がれているから。暗闇の中で親に呼びかけるように大ミオヤの親心をたのめば、み光をいただけ、法然上人の御道詠のようにに如来様にお会いしたいという気持ちが強くなってくる。如来様がそばにいらっしゃる、見ていて下さる、思っていて下さる。そのお慈悲のまなざしが感じられると、慕わしさが強くなり、声に出さなくてもお念仏ができるようになる。(ちなみに、山上上人は寝る前に十念を称えることをお薦めになりました。ご自身は睡眠中も念仏が寝言になり、念仏で目覚めるようになられたとのです。)
三身即一の大ミオヤ
大ミオヤは三身(法身、報身、応身)即一。大宇宙を心身としている本有法身阿弥陀尊。法身は、大宇宙の本体、法則、秩序、産みの御親、生かしの御親。報身は、人格的な中心、救いの御親。応身はお釈迦様、教えの御親。 世の中は不思議な事ばかり、何で手が開けるのか?立とうと思えば、なぜ立てるのか?意識の元は何なのか?科学では現象しか説明できない。その不思議を法然上人は「法爾の道理」とおしゃっている。個であり全体でもある、事事物物をそうあらしめている道理。阿弥陀様の来迎は「法爾の道理」があるから。大ミオヤの独尊、統摂、帰趣の原理。
無限向上の旅
念仏の中で、五眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)が開かれる。『聖きみくに』は五眼が円かに開かれた世界。しかし、凡夫は貪瞋煩悩により、五眼が円かに開かれない。そんな凡夫に弁栄聖者は、「今拝めなくても、お慈悲をいただければ、見えるようになる」とお励ましなされている。やさしさ、愛は目に見えないが、心でやすらぎが感じられる。肉眼では、阿弥陀様が見えないが、どこにでもいらっしゃる。そう実感できるようになったら、安心が確かになってくる。礼拝儀のト書きの絵のように、念仏する私に光があたり、光の中に私がある。見不見にかかわらず、その事に気がつかされる時、お浄土への往生、永遠なる命の世界への旅立ち、無限向上の旅が始まる。(山上上人は、10日間の断食を伴う決死の念仏によっても求めた結果が得られず、絶望の淵にあった時、心の方向転換が起こり、無限なる命の世界への感動と開かれた心で念仏ができるようになられたのでした。)信・愛・欲を内容として、一心にお念じ申せば、暖かさを感じ、心の中に力と勇気がもらえる。さらに積極的には、心霊界の太陽に照らされる。その太陽に照らされた弁栄聖者の印象を熊野好月さんは、「微笑みが微笑みを呼ぶ春風のような暖かさ」と例えられた。念仏を称えていくと、大ミオヤ様のお慈悲をいただき、貪欲がおさまり、心を平和にさせていただく。その光明力のありがたさ。
み光の花束
岡潔先生は、十二光をもって、宇宙の真理が説かれていると語った。また、人間の心理に、み光は届いており、例えば、清浄光で心は清らかになる。智慧光は真理を発見させる。よく見れば、その良さがわかるようになる。歓喜光は感情を浄化し、人の喜びを喜び、悲しみを悲しむようになる。不断光により無限向上の旅の中で阿弥陀様に意志を磨いていただける。炎王光は、炭に火がついて焼き尽くすように煩悩を焼き尽くす木叉上人は、特に炎王光が大変ありがたいとおっしゃっていた。無称光は念仏七覚支を展開する。ご聖歌『念仏七覚支』にちりばめられた”念”の言葉を味わい、大切にするように。念仏七覚支によって、お育ての道筋がはっきりして来る。このような行道は、他の宗教を見ても例がないであろう。(自らの体験に基づき、霊的深まりの行道をこれほど明確かつ具体的に表現されたのは実に見事で他に比類がないと、加藤神父もご同意されました。)真正面にいらっしゃる大ミオヤのまなざしは救いたい、守り育てたいというお気持ちに満ちみちている。それを念いながら、念々にみ光の花束をいただけば、念仏がありがたくなってくる。
 「如来は絶対無限大威霊と大自在と大慈愛とより我らを愛したもう慈悲からして、いと麗しき慈悲の面を表して愛し給うことを示したもうその慈悲の表現に対しては実に我らは愛慕恋念せざるを得ぬ。」(岩波文庫版『人生の帰趣』370~371頁)

万の徳は満みてり「故に弥陀は、衆生を愛する大慈悲が相好に表はれ、万徳円満なる人格と現はれ、如来の人格現はその光明に接触する念仏者を人格的に霊化するためである。弥陀の威神極まりなく儼臨し給ふことは、衆生の人格を神聖ならしめんがためにて、慈悲の相好は我等が内容を愛化せんためである。」(『ミオヤの光』「摂取の巻」より)

光明園別時感想

花輪 智之

お別時に参加して……光明主義に対する思い

                   
 今年はコロナ禍による未曾有の状況の中、光明園も新体制下で、ニューノーマルを手探りで模索しながらのお別時となりましたが、多くの関係者・参加者のご尽力・ご協力を受けながら、手応えのある有意義な念仏会になりました。その手応えこそが大ミオヤの呼びかけであり、”大ミオヤのみ光の中、念仏を通じて、弁栄聖者の御教えを血肉化していく”ことが、その呼びかけに応じていくことになるのでしょう。
○み光の花束 「大御親は天地間何の處にも在さざる所なき大御親なれば、今現に此處に在まして、大慈悲の面をあなたに向け給ふて在ます。あなたは信じて居ますかまた信じませぬか。・・・只あなたが一心に念佛する時あなたの心霊に入り、而して之を投影する時に客体化して現じ給ふ。如来の真法身と念佛者の心とは最も近い。どんな物よりも近い」(『難思光・無称光・超日月光』26頁)
 ここからは、加藤神父、山上上人の光明主義に対する思いを受け止め、私自身の光明主義に対する思いを述べさせていただきたいと思います。
 弁栄聖者は光明主義を宗教進化の面から超在一神的汎神教と定義なされました。河波上人は超在一神的汎神教が宗教学的には万有在神論に相当するとご教授なされました。加藤神父からはプロティノスの神秘思想もその底流とする汎東洋の宗教的普遍性をご教授いただきましたが、プロティノス神秘思想は、東方キリスト教会、スーフィズム(イスラム神秘主義)に強く影響を及ぼし、その両者の宗教的特徴は万有在神論と言われております。
 東方教会的に万有在神論を表現すれば、超越的な神が偏在し、聖霊として人に内在化した神が人を神化させる事であり、光明主義では、大ミオヤの霊応、霊化に対応するでしょう。その万有在神論は、西方キリスト教会にも、クザーヌス、ドイツやスペインの神秘主義等の中で脈々と息づいています。20世紀以降では、光明主義以外にもプロテスタントのパウルティリッヒの聖霊論、諸宗教の霊性の神学、ヒンドゥー教のラーマクリシュナやオーロビンドの超越的汎神論が万有在神論に通じています。万有在神論は、諸宗教の底流で脈々と息づいて来た普遍性と言えるでしょう。また、万有在神論の宗教を行相から見れば、東方教会のヘシュカズム、スーフィズムのズィクル、ヒンドゥーのバクティ(信愛)ヨーガ等、神への愛念による合一と特徴づけられます。大乗仏教の中にも、法然上人のご道詠でも表出されている通り、確かにその命脈があり、弁栄聖者は「憶念(愛念)は如来を戀愛憶念すること。…哲学的に観察するよりは、宗教的に戀念憶想すると、憧憬して忘るる能はざる如きは、最も宗教の内容豊富なるなり。」(『難思光・無称光・超日月光』76~77頁)とおっしゃっています。
 通仏教は無上の覚体を、宇宙全体、法(ダルマ)とも人格ともされる法身(体大)としていますが、弁栄聖者は自らの三昧体験から帰納的に、宇宙全体の絶対中心、三大(体相用)円融の中心真髄かつ十二光の核心である万徳円満の霊的人格大ミオヤ(超在一神的汎神教の仏身、三身即一、本有無作の報身)が私達の心を注ぎ、直結すべき対象であるとお示しになりました。
 密教の法身説法により秘境開説される月輪観をも包み込むように、弁栄聖者は、「たとえ月に目鼻をつけた程でもよいから、いつも心に慈悲の御顔を想いお慕い申して念仏せよ」とご指南なされています。礼拝儀の「本有法身」はその最奥も含めて、頂きたいと思います。
 また、弁栄聖者は、大ミオヤを絶対精神の面から絶対無規定円成実性と呼んでおられます。その円成実性は、十二光により、一人ひとりの信念に応じて、法爾(絶対理性)、隨縁(絶対感性)、円融に、念仏七覚支を含む三十七道品の行法と心相の光化を能動的に展開しています。
 大ミオヤは、私達の信愛の念に相応した親密の因縁(愛の感応同交)により、「阿弥陀とは本有己心の覚体、人人具足己己円成」(聖聰上人『一枚起請見聞』)の如く、一人ひとりの心の中に、大ミオヤの完全なるご分身、霊応身をお宿しになります。その霊応のお育ては、私達の無意識・意識の内容を如来化し、大ミオヤの世継ぎの証である三身四智の仏眼と真応(みこころ)との合一による妙色荘厳および四徳荘厳(常楽我浄)を実現して下さるのです。己己円成は、個人解脱に留まらず、同体大悲の愛と一体化した全分度生の活動、そして一切衆生をして、弥陀即一切諸仏の宇宙解脱を現成する無限向上の道(無住処涅槃)を展開し、そこに、大ミオヤの自性清浄と無縁の大悲とが円融になった自内証、恒常不断の御働き(自性清浄涅槃)が相即している。
 弁栄聖者は、そのアルファにしてオメガの絶対的根源的活動態を、『聖きみくに』の最後で「分身利物の極」と表現されたのでしょう。光明主義の超在一神的汎神教の御教えは、普遍(超越即内在、無上なるものへの愛念)かつ最奥(絶対中心との合一、宇宙解脱)に導く無限向上の行道なのです。人類の霊性進化に向けて、諸宗教そして特定の宗教に属さない人々と縁を結び、要石となるのが光明主義の使命なのだと思います。その本領を発揮するのが、何十年、何百年先になるのかはわかりませんが、来たるべき時のために、そしてその先のために、業障深き身ではありますが、大ミオヤの無縁の大悲のみ光の中で、光友と共に愛念の念仏を相続してまいりたいと思います。
 「真実に宇宙間唯一無二の霊的人格現に対して我らは愛念せざるを得ぬ。宇宙全体の大霊より表現したる人格表現なればその所現の身の大小に拘わらず絶対の表現なり。この霊的表現の弥陀より外に自己の絶対的に帰命信愛するものはなし。」(岩波文庫版『人生の帰趣』371頁)   合掌

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