光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和4年12月

第十四回光明園別時念仏会・弁栄聖者報恩念仏会(関東支部後援)

田代 泰彦

日時:十一月二十日(日) 九時~十七時
会場:光明園
参加者:二十一名

 前日までの季節外れの暖かな日差しから打って変わり、十二月中旬並みという寒さを感じさせる中、第十四回弁栄聖者報恩念仏会が開催されました。例年ですと二日の予定ですが、今年も昨年同様コロナ禍の影響で一日の開催となりました。
 このような状況でしたが、早朝から大勢の方々の参加をいただき、活気のあるお念仏の声を聴くことができました。
 午前中は念仏、朝の礼拝、聖歌「聖きみくに」「諸根悦予讃」、午後は念仏、写真撮影、伊藤代表役員(関東支部支部長)のご挨拶、八木上人のご法話・質疑応答そして大南上人の閉めの言葉と共に閉会式があり、最後に聖歌「のりのいと」を合唱し解散となりました。その後は午後七時半まで有志として三~六名の方が参加されました。
 運営等は、司会進行(炭屋師)、維那(小西師、森井師)、大木(花輪さん、田代)、伴奏(岩下さん、遠藤さん)、講師送迎(伊藤代表役員)、参加者世話係(芥川さん他)、全体運営(佐藤師)で行いました。
 今回は、河波上人(光明園二代目園主)のご友人でもある八木上人をお迎えし、ご法話を拝聴することができました。八木上人は改めてご紹介するまでもなく、今年の七月まで十四年間に渡り、増上寺の御法主を勤め上げられました。また以前住職をされていた一行院(現在はご子息である八木千暁上人がご住職)は、徳本行者、弁栄聖者ともゆかりの深いお寺であり、光明主義と深い縁のあるお方です。
 ご法話の冒頭、伊藤代表役員(関東支部支部長)から、「ここ(光明園)がお念仏の道場であること、そのことは変わってはいけないことを今後も、皆で自覚していくことが大切。その聖者の念仏道場の象徴として今回は八木上人様にご法話をいただくご縁をいただくことができた。」とのお話がありました。

【八木上人のご法話】

 〈今回のご法話は、ひかり誌 二〇二二年二月号記載の「発熱の文」をテキストとしてお話しいただきました。〉「発熱の文」の「発」はホツと読む。これは仏教が伝わった時期で変わる。古い漢の時代のものは漢音でハツと呼び、法然上人の時代は呉の時代に伝わったものだから呉音でホツと読む。
 今回取り上げる発熱の文の内容は、弁栄聖者でなければ書けない文章である。仏教の言葉を皆さんに伝えていくことは大事なこと。その中でお念仏信仰とは法然上人の御慈悲であり、その内容をこのような形でお説きになったものは他に見当たらない。弁栄聖者でなければ書けない文章である。今回はそれを皆さんに伝えたい。「私どもには、霊性と肉体がある。肉体は人の子で霊性は如来の子である」この言葉は三昧発得し、お念仏を広めることに熱意を持たれた聖者だからこそ言える言葉。こういう表現は弁栄上人以外出来ない。
 霊性のことを、私は絶対性という言い方をします。この世には、絶対界と相対界(自然界)がある。絶対界は、これしかないという世界であり、相対界は何かがあって次があるようなあり方の状態のこと。例えば、空気があるから我々が生きる、水があるから魚が生きる…これが相対性。この絶対性と相対性の違いを弁栄上人は、霊性と肉体という表現で説明された。お念仏の世界にも絶対性と相対性がある。霊性とは仏性という表現であらわされる。これは仏陀になる能力があるということ。このことを弁栄上人は実にわかりやすく説明している。
 結局私たちには、親が二つある。我々がいただいた肉の身体はお母さんのお乳をいただいて育つことができる。霊性は如来の光明にて育てられるのである。如来様の力をいただかなければ育てることができない。
 なぜ我々が念仏するのかというと、霊性をいただいている事実があるから、如来様のお力をいただいて育てていくためにお念仏をする必要があるのです。
 こういう風に如来様のお育てをいただいているところの霊性が私たちに存在することを、弁栄聖者がお説きになったことは本当にありがたいことです。

善悪の判断
 現在の日本には、善悪を決める拠り所がない。だから自分の都合の良いことをすることが善だと、不利なことは悪だと考える人が多い。これを正すことは難しい。
その方法は、私たちに与えられている仏性・霊性を育てなければならない。如来様の御心(仏心・仏性)これを育てないと善と悪の決め手がない。
 人の命を奪ったり、人をだますなんてことは、以前はなかった。これを以前は悪いとわかっていたことが、自分の都合で決めるために悪いと思わない世の中に最近なりつつある。
 これを正すためには宗教心を持つことが非常に大切。今の時代それが薄れている。
 最近のニュースで死刑囚にハンコを押すことが、法務大臣の仕事というのがあったが、これは間違い。本当は、法務大臣は犯罪を起こさないように国民を導くことが仕事である。
 私たちが人間的な価値を高めていくためには、宗教心を持つこと。宗教心が薄れ、宗教というものが間違いを起こすものだという考えが広がっていることは非常に残念なことである。
宗教心
 キリスト教、仏教などの宗教を選ぶためには、その宗教の内容を深く知ることが大切。日本人に適するものはキリスト教や昔からの仏教がある。これらの宗教心は人間性を高めるものである。
 宗教心があるのは人間だけである。つまり宗教心が薄れると人間性がなくなる。宗教心がなくなると動物と同じになってしまい力づくになる。このことから宗教心を養うことを考えていく必要がある。
仏性霊性
 如来様から頂いた仏性霊性。仏陀にならなければ、極楽に生まれることは完全にはできない。いつでもお浄土の世界に生まれることはできない。しかしお念仏は親の名前を唱えること。仏性が育てば、日本で欠けている善と悪の判断は仏心に随順(仏さまの御心に従う)する。これが善なのである。
 仏様の御心に従うということで慈悲の心を持って相手に接することができる。私たちの生き方に大切なこと。宗教を否定してしまったら仏心を否定することになるから悪を平気で行うことができるようになる。これは如来様の心に反すること。
 如来様が必ず心のうちにお示しくださる。(心のうちに湧いてくる。)これが大事なこと。何もしないで善と悪を決めようとしてもできるわけがない。
 これらのことが、この「発熱の文」に書かれている。弁栄聖者でなければ、自覚を持ち、実践し、書くことも、考えることも、こういう思いを抱くこともできなかったはず。
如来様の導き
 私共には悪に落ち込む可能性がある。念仏心に如来様の光を受けるので、そういうことの無いように如来様が導いてくれる。お念仏をすることで仏性が育ち、やって良いことと、悪いことがわかるようになる。力となって抑えてくれるようになる。
 私たちは誘惑に負けることもあるかもしれない。それを如来様は弱さを直して、力となって教えてくれる。そういう心が湧くようになってくる。そういうありがたい導きをいただけるようになる。しかし縁をいただかないとわたしたちの仏性霊性が育たない。働くと大きな力となって、やってはいけないことがわかるようになってくる。
 宗教心を失うと、得をするか損をするかに気を取られる。ふだんから仏性を育てておくことが大切です。霊性は如来様の御力によって育つことができるのだけれど、私たちが念仏の行を唱えることが大切です。
徳本行者のエピソード
 一行院には徳本行者のお墓がある。徳本行者は和歌山県の志賀の生まれ。四歳で友人が亡くなった。そのことで母親から念仏を勧められる。法然上人の「一枚起請文」を首から下げて一生涯念仏した人。徳本行者が亡くなったとき、吉田嘉平治という関西の豪商が新しく作った船に御影石を載せて、江戸まで運んだ。そこで作られたのが徳本行者のお墓なのです。そして徳本行者が亡くなる前に自分が命が亡くなった時、百五十年から二百年たった時に、石のお棺を開けてほしいといったことを誰かから聞いていた。それと同じことを新潟県でもある人から言われた。そのことが驚くべき偶然として私が住職の時代に、その二百年にあたってしまった。ただし、大きな石なので供養塔を外すためには、下の土を固める必要があったが、この復元が困難ということで実際には行うことができなかった。いつか実行するお方が出れば行うことになると思います。
まとめ
 今日お話ししたこの文章は弁栄上人でなければ書けない。これを読めばなぜ我々が念仏するのか、念仏をすることによって肉体は母親の乳房を吸って育つのと同じように、念仏を唱えることによって、私が如来様から頂いた仏性(一切衆生悉有仏性)、すべての人が持っている仏性、持っているけれどもその仏性を育てないといけない。お念仏をするとその仏性が必ず育って母親の乳房から乳を飲むがごとくに、如来様のご光明がいただけて私どもの仏性に反応してくる。仏性の無い人はありません。必ず生まれたからには仏性がある。その仏性が私を育てる、守ってくれるという教えを如来様が教えてくれる。これがお念仏の信仰のありがたいことであります。
 私は昭和四年生まれ。戦前海軍の兵学校にいた。私の七十八期では長崎県に学校があった。終戦で戻ってきた。十歳上の兄がお寺を継ぐことになっていたが、三年後兄の戦死の報道があったので、私はその後医科学校をやめて、仏教の勉強をするようになった。
 父親が弁栄上人に帰依していたから、弁栄上人のおかげだと感じているものです。一切衆生悉有仏性、必ず仏性を持っているから母親が乳を与えるように、念仏をお唱えすると、私どもの弱い心に如来様が強い力を与えてくれる。お念仏の信仰というものは私の弱さを心の強さとなってお導きをいただけるという貴い教えです。この教えを弁栄上人が残してくださいました。我々はありがたく受けるべきなのです。
十念

【終わりに】 

 八木上人様のお話は、終始穏やかで大きくはっきりしたお声であった。内容はとても分かりやすく、終わった後も爽やかな風の余韻を感じるものでした。お上人が何度も繰り返された「母親の乳房を吸い育つように、お念仏をすることで、もう一人の親である如来様によって仏性をお育ていただける。」「このことが今の日本に欠けている善悪を判断することにつながっていく。」このことをしっかりとかみしめたいと感じました。また、人と如来様という二人の親を持つ子供として、親を大切に思う気持ちはどちらの親にも等しく持つべきものだと改めて感じました。

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