光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和5年4月

光明園 2月の報告

佐藤 蓮洋

◇5日(日)は一行三昧会を開催し、11名参加いただきました。午前中は、晨朝の礼拝、お念仏、聖歌「感謝の歌」をお称えしました。午後は、聖歌「清浄光」、お念仏、昏暮の礼拝をお称えしました。光明園の庭には、今年も紅梅が咲き、「天は何ともいはねども、四時は常を過まらず、春は芽生えて・・・」という『感謝の歌』の歌詞にふさわしい風景でした。オヤ様のお恵みに感謝です。

◇19日(日)は「念仏会と講話」、10名の参加をいただきました。午前中は、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌「如来讃」を、午後は聖歌「念仏七覚支」、お念仏をお称えしました。
その後、講師の花輪さんからお話をいただきました。これからは、花輪さんご自身に要点をまとめていただき、皆様にご報告させていただきます。

 花輪 智之
 この講話では弁栄聖者から木叉上人へのお便りである「年頭法語」を基に安心(①所帰:信仰の本尊、②所求:信仰の目的、③去行:信者の務め)を学んでいる。今回は所帰かつ所求に通じるご聖歌『一心十界の頌』(以下『頌』)を味わう。
 大ミオヤには①不変(真空)の面:自境界である完全円満な万徳に充ちた如来蔵性 (超在一神の面)、②現象(妙有)の面:如来蔵性を根源としてご自身の目的、法則に基づき十界(六道、四聖)の一切を自中に発現し、一切衆生を諸仏へと摂取する現象態(汎神の面)がある。
 『頌』の冒頭では大ミオヤの一大精神の核心である如来蔵性が一切の発現の源であり、一切の心の奥底で働きかけていることが示されている。続いて一心による十界の発現が示されているが、一心は個々のアラヤ識に蓄積された業識とともに、業識に応じて十界を自発する大ミオヤの一大精神と捉えるべきであろう。個々の心の中の十界、地球という国土の十界、宇宙のあらゆる十界の重々無礙が大ミオヤのふところに抱かれている。
 続いて示される六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の世界のうち、人間界は様々な境界の衆生が肉の身を纏って一同に会する特別の修行場。大ミオヤのお育てにより出世間の三昧(慧眼、法眼、仏眼)が実現すると六道輪廻から離れる。但し、慧眼、法眼では六道に退転することがあるので、決して慢心を起こしてはならない。
 続いて四聖界が示されている。声聞、縁覚は小乗の悟りで帰入する世界。大乗、殊に念仏で帰入するのは菩薩、仏陀の世界。菩薩界には仮住い(有余涅槃:①この世で出世間の三昧を実現している状態、②この世に転生して無明を滅するまで慧眼、法眼、七覚支までの仏眼の境界で一時的に帰入している状態)、本住い(無余即無住処涅槃 :無明を滅し、超日月光の位で三身四智の仏眼を実現してこの世を去った後、分身利物による全分度生の活動を行う)の状態がある。『頌』の菩薩界には無余即無住処涅槃の心が示されており、『聖きみくに』の十番の内容と呼応している。仏陀界は菩薩界の満位である釈尊の境界。
 『頌』の後半では一切衆生を仏陀界に帰入せしめる摂取門の内容が示されている。無余即無住処涅槃に相応する三身四智の仏眼にある私達は大ミオヤの衆生済度の働きである妙有を活きつつ、その刹那毎に大ミオヤの自境界である真空に直結し、み心の内容と深く合一していく。その時、最深の真空妙有の中道である「長閑さ有無を離れにき」(『聖きみくに』)が実現する。また、礼拝儀『至心に発願す』の「同体大悲の愛」の発心は「一切衆生を我身とす同体大悲の極みなし」(『一心十界の頌』)の究竟(全分度生)に繋がっている。
  大みひかりに目ざめたる
  かがやく心ほとりなく
  十方界にすきとおる
  いつもかわらぬ活きどおし 木叉上人

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