光明園 6・7月の報告
佐藤 蓮洋
◎一行三昧会は6月4日(日)と7月2日(日)に開催。参加者は6名と8名でした。午前9時から午後3時までの間、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌、昏暮の礼拝をお称えしました。
◎念仏と講話の会は6月18日(日)と7月16日(日)に開催。参加者は 12名と11名でした。午前9時から正午までの間、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌をお称えし、午後からは聖歌に続き講師の花輪さんからお話をいただきました。
講話
花輪 智之
5月の講話に引き続き、6月と7月の講話では、常住不変の聖容(みかお)と三心について深堀する。
1 常住の大悲
弁栄聖者は『宗祖の皮髄』にて観経の第九真身観より如来の相好(聖容)が遍く十方世界を照らし念仏の衆生を摂取する光明および無縁(縁ぜざるものはない)の大悲である仏心と円融である事を示す経文を引き、聖容が大ミオヤの麗しき愛の現れである事をお説きになっている。また、『人生の帰趣』において、麗しき愛の現れである聖容を大ミオヤの万徳の絶対表現として絶対的に帰命信愛する事が起行の用心(正しく念仏する時の心構え)に旨う安心(心の据え置き所)であるとお説きになった。その心が聖歌『念仏七覚支』の択法覚支で「端正無比(たんじょうむび)の相好(みすがた)を御名を通して念おえよ」と頌われている。
宇宙全一の絶対中心(平等(あまねく)一切に遍在し、一切を統一し、一切の差別現象の根源であり、終局目的として一切衆生を弥陀即一切諸仏へと摂取する大ミオヤの万徳)が衆生に感応する面である常住不変の聖容(無縁大悲のまなざしであり、衆生の信念に報いて心想中に霊応を発現する真応身)が聖容の核心である。その核心と一体となり万徳を体現された釈尊の境界を弁栄聖者は『礼拝儀(至心に発願す)』で「光顔永しなえに麗しく在ししは内霊応に充給いければなり」と讃えられ、「完徳の鑑たる世尊に倣いて如何なる境遇にも姿色を換えざること」を発願するよう私たちに勧められている。
信念により憶い上げる御姿に即し常住不変の聖容をお慕い申す事(念仏の核心)は心の中心を一切処に遍在する絶対中心に直結することに対応している。聖者は至心に帰命する信念を「如来の在さざる処なきが故に今現に此処に在ますことを信じて一心に恭礼し奉る」と表明された。
それは初期礼拝儀に掲載されていた如来寿量品(法華経)に描かれた常住大悲(常に今此処に住して、絶え間なく働き続けている如来の大悲)に心を据え置く事に通じるものである。その心で礼拝儀を頂くならば、「霊応常住に我心殿に在まして転法輪を垂れ給え」の一句に収まるであろう。
「ながむる人の心にぞすむとの”すむ”ということに深意がある。これは信念ある人の心にのみ霊応は宿り給うなれとの意である」(『日本の光』)
2 至心と三心
弁栄聖者は恩寵(一切衆生を摂取し給う聖意である無縁大悲)に相応する衆生の信仰心意として「至心」の形式と「三心」の内容をお説きになった。
- A 至心(真実心)
- 大ミオヤの宇宙全一の絶対的真実心は衆生が霊性開発によって神人合一する真実の自性である。
- B 三心
- ミオヤの恩寵と親密なる因縁の下に内容を充実させる信仰心として知情意の三心がある。
- ① 信念(知)
- 恩寵のうち近縁に相応する知力の信仰として仰信(ミオヤを仰いで信じる天然素朴の信心)、解信(理性的に宗教上の真理を領解する信認)、証信(宗教関係の実現を証明し、実在本質を信認)の三位がある。特に難思光(五根五力)は仰信に始まり、満位で十二光の統一態に触れ始めるところで証信の一部が始まる。以降は仰信と証信が円環的に深まり、超日月光(体現位)で真実の自己である大ミオヤと円満に合一し、仏子となったところで、仰信と証信が一致する。五根五力の信心喚起で仰信が妄信とならないために、解信を通じた安心(所求、所帰、去行)の確立が必要となる。また、解信は証信によって円満となる。
- ② 愛念(情)
- 恩寵の中心真髄である親縁に相応する感情の信仰として次の三階がある。
(ア)「帰命」の「感情」(難思光の信心喚起で、己を献(ささ)げて信頼する心が「帰命」となり、ミオヤの光明に接しない間は如来を恋慕愛念する「感情」となる)
(イ)「融合」の「心情」(無称光にて大我の中心と小我の中心が親密となる霊福が「心情」となる)
(ウ)「安住」の「情操」(「融合」が心の花とすれば、「安住(安立)」は果。無称光で仏眼が開かれた後、如来の大我に離れることなき「安住」し、機能一致する心が「情操」) - ③ 欲念(意)
- 恩寵のうち増上縁に相応する意志の信仰。真善美の霊国を生きんと欲する意。一切衆生を摂取せんとする大ミオヤの聖意(無上菩提)を根底とする作仏度生の菩提心。愛(情)の信仰の果である「情操」が聖意体現まで深まれば、欲生(意)の果である「志操」となる。
特に大ミオヤの力添え(三昧定力)を受けた宗教的衝動(「仰信」の尊崇と「作仏度生」の菩提心とが融け合った大ミオヤへの「愛慕」)である「帰命(感情)」に親縁(恩寵の中心真髄)が感応し、大ミオヤの形式を含む内容による霊育が始まり、「融合(心情)」、「安住(情操)」と「情」のお育てが深まる中で、近縁による仏知見開示の形式的合一(「知」のお育て)と増上縁による感覚と意志の解脱霊化の内容的合一(「感覚」と「意」のお育て)が円融に展開する(霊的感覚の開花から霊的意志活動の結実へと深まる)。
「心の宮殿に如来を本尊として信念する時は尊とくかたじけなさを感ず。斯く如来と離れざる親密の因縁を宗教の中心真髄と為す。有ゆる霊の力は是より発動す。是が道徳の原動力である。」(弁栄聖者)