光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和5年10月 第21回相模原 親子別時念仏会

日時:令和5年7月22日(土)、23日(日)
場所:光明学園相模原高等学校
人数:28名(関東支部14名、光明学園生徒7名、卒業生2名、先生他5名)

 猛暑の中、午後1時から開会式がスタート。
司会の伊藤旭栄教頭先生の進行により、伊藤支部長、天野校長先生、山上上人よりご挨拶をいただき、遠藤さんの伴奏により聖歌「聖きみくに」を合唱。その後、山上上人のご法話(後述①)をいただきました。休憩後、森井尼の指導により念珠づくり、写仏などを行い、聖歌「十二光」を合唱。夕食後は、献灯式を行い、暗闇の中、一人ひとりが阿弥陀様にロウソクの灯明をお供えし、厳粛な雰囲気の中で一日目が終了しました。
 二日目は、無量光寺様に参拝。山上上人のお導師のもと、お念仏をさせていただき、弁栄聖者ゆかりの光明学園創立当時の教室を見学しました。その後、弁栄聖者と笹本戒浄上人のお墓にお参りしました。朝食後、晨朝の礼拝、聖歌「諸根悦予讃」を合唱し、円陣を組んでのおやつタイムにフリートーキング。続いて、休憩後に山上上人のご法話(子供用、大人用 後述②)を拝聴しました。昼食前に感想カードを記入。 
 閉会式は、伊藤旭栄教頭先生、伊藤支部長のご挨拶、そして山上上人のお言葉をいただき、聖歌「のりのいと」(伴奏 遠藤さん)を合唱し、無事終了しました。
 猛暑の中、年齢としては1歳10か月の陽菜花(ひなか)ちゃんから92歳のK.Hさんまで。また3組の親子と1組の親・子・孫の参加をいただきました。光明学園の先生および生徒の皆様にもご協力をいただき、感謝いたします。来年もまた元気でお会いしたいと思います。 (記:佐藤蓮洋)

【山上上人のご法話】

①一日目 (記:花輪智之)
1 「あたりまえ」と「ありがたい」
山上上人は高校時代に弁栄聖者の『人生の帰趣』に出会われ、それまでの理系志望から仏教を学ぶ道へと進路を変更された。『人生の帰趣』には深遠な宗教思想に留まらず、自然界や大宇宙を貫くアミダ様の真実が説かれている。人生の末期に聖者の『無辺光』に感化された井村医師は手足が動くという、「あたりまえ」に感じられる自然現象でさえ、「ありがたい」事だと実感された。
 近年、「あたりまえ」の自然現象を解明してきた科学の世界観は宗教の「ありがたい」の世界観にも近づいて来ている。例えば、分子生物学で解明された六兆の人体細胞の三年の歳月にわたる入れ替え(変わらない自己が常に入れ替わっている)の現象は仏教の諸行無常諸法無我に通じる『方丈記』冒頭の「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」を思わせるものがある。生物学者の福岡伸一氏は『方丈記』冒頭のような常に新しく、常に現在でしかなく、あやうく保たれる自己のおぼろげな輪郭(動的な状況の中で現れる秩序)を「動的平衡」と表現された。
 また、量子論で解明されつつあるゼロポイントフィールド(生成・消滅の根源)は、無限の過去からのありとあらゆる営みの残存であり、すべての形ある営みが生まれ出る潜在力として、仏教のアラヤ識、さらに深いレベルで言えば、如来蔵や宇宙に遍在するワカリ等の超意識を思わせるものがある。

2 光明主義の意義
弁栄聖者は光明主義により、アミダ様が宇宙の根源であり、大宇宙である親様として小宇宙である私たちを慈しんで下さる事、法身(アミダ様の本体)から生み出され、授けられた霊性を開発するのが人生の目的である事を説かれた。また、御名を称えれば、アミダ様が聞いて下さる、慈しんで下さる。ナムという気持ちでアミダブツを心で頂く(アミダ様の愛を頂く)、心がアミダ様と一つに溶け合う事で、心の底から宇宙規模の喜びが沸き上がって来る事をお説きになった。
 聖者はキリスト教の神の愛と仏教の仏の慈悲とが同じものであると捉え、両方の教え、ひいては東西宗教を融和せしめる根柢である宇宙を貫く絶対的な愛を明らかにされた。いろいろな教えがある中、聖者が創立された光明学園は、最高の教えに出会う事ができる大変すばらしい場である。

3 念仏により広がる心の平和
光明主義の教えに影響を受けた岡潔氏は情緒論を展開し、理性・感性とそれらを超え包み込む霊性(仏性)を重要視し、念仏を通じて、理性・知性が深く高まる実体験をされた。念仏によって、アミダ様の聖容を念うと、心が平和になる。負の感情から自由となり、集中力が高まり、今あるものを深く喜び、積極的に生きて行く事へと心の平和が広がって行く。念仏を通じて、「あたりまえ」に生きて行けるのは全宇宙が働いて下さる事、宇宙規模で生かされている事に気づかされ、「ありがたい」という喜びを心の奥底から深く実感する事ができる。
②二日目 (記:佐藤蓮洋)
〈子供用〉
山上上人は、子供用にと、絵本を取り出し朗読をされた。新美南吉(著)「ごんぎつね」です。大変いたずら好きな狐「ゴン」は、川の魚をとる兵十からうなぎを盗ったりした。しかし、そのいたずらが兵十の深い悲しみを招いたことをしり、一生懸命その償いをしますが・・・・。上人は、朗読を終えた後、一呼吸して、「「ゴン」はいたずらをして、反省し、その償いに心をくだきますが、誤解されて、最後は撃ち殺された。皆さん、それぞれ感想をもってください。」・・・と結び、あえてお上人の解説は控えられました。
〈大人用〉
●無条件の愛
弁栄聖者は阿弥陀様のことを宇宙の大霊と呼び、晩年は愛を説かれた。それは無条件の愛。愛というと、恋愛をし、その後結婚する。でも、時がたち、この好きという条件がはずれると「娘と花咲いて、家かと萎んで、婆となりけり」とあるように、心が変わり、いらないのはあなただけ(笑)となる。しかし、神様仏様は無条件の愛。
子供が、お母さんへ「買い物のお手伝い100円、弟のお守り100円、犬の餌やり100円」と請求書を机の上に置く。それを見たお母さんが、紙を渡す。「洗濯代0円、ご飯代0円、服の破れを縫う0円。」このように、母が子供を育てる条件、それは無条件。男女の愛と違う。子供がかわいくてしょうがないから。

●貪瞋痴を消し、清らかな心へ
人間には自我があり、貪瞋痴の煩悩があり、自分中心に考える癖がついている。自分の思い通りにならないと腹を立て、カッとする。自分の欲しい者は人を倒しても欲しい。雨が降っていれば、晴れが好いという。自分勝手な考え、どうにもできないことをしたいという貪瞋痴が愚かな行動の原因である。念仏をお称えすることで、光明によってこの煩悩を消してくださる。人を思いやる気持ちを育て、清らかな心に育ててくださるのが阿弥陀様の光明です。この阿弥陀様の救済のはたらきを摂取の光明という。

●「よきたねをまけ」
礼拝儀の1頁を見ると、阿弥陀様の真下に人間、向かって右側にお釈迦様、左側に観音様と勢至菩薩様。光明が十法世界を照らし、南無阿弥陀仏と称える人間に光が届いている。木叉上人の心田田植歌にも、自分の心を田んぼに喩え、お念仏の一声一声が一本一本の苗となり植えられる。すると、阿弥陀様の愛が一回一回、植えられていく。今宿泊している導師部屋に弁栄聖者が書かれた「よきたねをまけ」という軸がある。愛の種、慈愛の種、光明の種を一回一回まき、水、光、肥料等が加わり、やがて花を咲かせて、実をみのらせていく。心の田んぼに愛を植え付け、阿弥陀様の光明によって、蓮の花のような清らかな心の花が咲いてくる。ありがたいですね。

●感謝手帳で、ありがた貯金
お念仏を称えると、感謝の心が分かる。食事の時に「いただきます」というのは、いのちをいただくこと。食事の時に十念を称え感謝を伝えることは大事なことです。感謝の心を持つことで、自分が豊になる。学生の皆さんも日々の生活の中でありがたいことを見つけ、感謝手帳をつくり、貯金するとよいですね。きっと、何か大きな苦しみに出遭った時に、その手帳を見たら心の底から勇気が湧いてくると思う。将来の宝になります。
大宇宙の愛の源泉が阿弥陀様。その阿弥陀様から愛がこんこんと湧き出ている。私達が南無阿弥陀仏と称えるたびにその愛を届けてくれる。弁栄聖者は念仏三昧を体験し、その真理をつかんだ。弁栄聖者は宇宙の時代の教えを説いたが、ただ、南無阿弥陀仏を称えるしかない。
【感想文】
  • 〈ごんぎつね〉さいしょはやってることがよくなかったけど、あとの方はやさしくなってきたのに、さいしょのおこないが悪いからうたれてしまっていてかわいそうだな、と思いました。少しかなしいなと思いました。(11歳)
  • どのような宗教の法話をしてくれるのか。難しい説明であれば寝ていたかもしれませんでしたが、宗教の説明を化学に言い表していたので、とてもわかりやすく寝ることがありませんでした。(17歳)
  • 今年も親子4人参加させてもらいました。記憶に新しいせいか、子供が「寝る前に南無阿弥陀仏を10遍言うんだった」と言い心の中で唱えていましたが、怒る前にも3分間ガマンするとも言っていました。収獲多い今回でした。
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