光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和6年2月

光明園昨年12月の報告

〈弁栄聖者一〇四回忌報恩念仏会 田中木叉上人五十回忌報恩念仏会〉
 日時:令和5年12月3日(日)
 導師:大南龍昇上人
 維那:鍵和田充生上人

 光明園の初代園主 田中木叉上人は、令和5年12月12日に五十回忌を迎え、また、弁栄聖者は12月4日が祥月命日のため、お2人のお上人の報恩念仏会が光明園で12月3日(日)に開催されました。
 午前中は例会・一行三昧会が行われ、午後一時半より大南龍昇前園主のお導師のもと、17名の参加者により実施されました。総合司会・小西師、木叉上人のご法話紹介・花輪さん、聖歌伴奏・岩下さんと遠藤さん、受付・芥川さん等、光明園の役員の方々によって運営されました。
 お念仏でお導師をお迎えした後、大南上人の「田中木叉上人略伝」の拝読、ご回向をいただきました。次に、伊藤代表役員のご挨拶、聖歌「哀悼曲」「感謝の歌」を合唱。その後、大南上人の五十回忌に寄せてのお話をいただき、続いて木叉上人の高野山別時でのご法話(CD)を拝聴しました。休憩を挟んで、「如来光明礼拝儀」をお称えし、念仏一会の時に参加者のお焼香。最後に聖歌「感謝の夕(ゆうべ)」を合唱しました。茶話会では、木叉上人と面識があり、お教えをいただいた岸田年生さん、花岡こうさん、山本サチ子さんから、木叉上人と奥様のエピソードが語られ、また、別時でのご指導の厳しさとは異なり「女性に優しかった」という発言も飛び出すなど、思い出話に時を忘れました。五十回忌というご縁に結ばれたことを感謝するとともに、木叉上人のみ教えを心に刻み日々の生活に生かしていきたいと思います。合掌(記:佐藤蓮洋)

お知らせ

 光明園では、初代園主 田中木叉上人の五十回忌を記念して『「徹照」―木叉上人の教えと言葉―』を出版しました。希望者には1冊2000円(送料185円)にて頒布しています。ご購入を希望される方は、次のようにお申込みください。

申込み
①申し込み冊数
②郵便番号
③住所
④お名前
⑤電話(メールアドレスもあれば記入)
◆ハガキ:〒182-0036 東京都調布市飛田給1-9-4 ひたちや書店
◆電話:090(4629)7069
◆FAX:042(484)2157
◆その他 光明会ホームページ(通信販売のページ)アマゾン(ここをクリック・またはアマゾンにて「田中木叉上人」で検索)でも購入できます。

講話(12月) 花輪智之

 今回の講話では、先月の光明園お別時の講話の続きとして、「見」仏の根底にあるものを深堀する。

1「観」と「見」
 観経では「観」と「見」に区別あり、「観」は定善(自力)でこちらから仏をみる(思惟)、「見」は本願力により仏の方からこちらに現れて下さる(正受)であること、正受は自力を超越した境界であり、まったく他力(本願力)に依らねば出来るものではないというのが善導大師の釈意であるとの考え方が真宗の中にある。
 一方、弁栄聖者は「観念は知力信仰にて理性を以て観念推察して、仏の相好叉智慧実相等を知見すること。憶念(愛念)は如来を戀愛憶念すること。哲学的に観察するよりも、如来を戀愛憶念する感情が宗教の中心である」(『難思光』)とお説きになっている。
 聖者は「観」を観念(観想)による観仏と捉え、「見」を憶念(愛念)による見仏として活きた大ミオヤに見え、御心の内容を頂く事と捉え、念仏三昧すなわち衆生の愛念を因とし、大ミオヤの恩寵を縁とする親密なる因縁を結び衆生の感覚・知情意の心相が光化・摂化を蒙る神人合一の宗教的関係の中心が「見」にあると考えておられる。
2「見」の根底にあるもの
 聖者は「意常に仏を憶念する時は方便を假らずして見仏を得。・・・意常に仏を憶念すれば仏に同化す・・・浄土を開くの寶鑰は、仏教に之を説くこと甚だ多しと雖も、見仏をもって最とす。・・・心眼開発して見仏するを宗とす。見仏の要は一切心意を仏化するにあり」(『無称光』)と説き、その根柢にあるものとして、観経の経文である「如来は是れ法界身なり、一切衆生の心想の中に入り給う。この故に汝ら心に仏を想う時、この心、すなわちこれ仏の三十二相、八十随形好なれば、この心、仏と作る、この心、これ仏なり。諸仏正徧知海は、心想より生ず」をお引きになられた。
 そこに聖者は、「是心作仏」が「仏身を見る」(霊的感覚)の開花に対応し、「是心是仏」が「仏心を見る」(霊的心意)の結実に対応し、衆生の愛念(「心想仏時」)に応じて、如来の摂化のお育てを蒙り、霊的感覚から霊的心意へと摂化が深まる事、そして十界の一切を自中に発現し一切に遍満・内在する常住不変の真実在が如来の自境界である自性清浄涅槃としての「法界身」であり、真実在の終局に向けた展開である本願力により平等一切の一人ひとりが如来の自境界である完全円満な万徳の内容を体現する諸仏へと摂取される終局である無住処涅槃(聖きみくに)が「諸仏正徧知海」(諸仏と等しき覚位の世界)である事を見ておられたのであろう。そしてそこに、「見」仏の根底である大ミオヤの常住大悲、今現にここに住して絶え間なく働く大悲であり、終局として親密なる因縁により一切衆生をして弥陀即一切諸仏へと摂取する無縁(縁ぜざるものはない)大悲の「まなざし」(「仏の三十二相、八十随形好」として真正面に在します大ミオヤ)が一切処に遍満しているのであろう。
 「我如来を愛す。如来は何處に在すかと云うに、如来在まさざる處なく如来は絶対無限である。我々は如来の愛子である。吾らの霊性は如来の中に投機没入して、亡くして仕舞ふのではない。我ら個人の霊性を通じて如来を見る時絶対無限の如来を知見することが出来る。絶対なる如来は一個の霊性に溶けいらんとしてをる。」(弁栄聖者)
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