光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和6年3月

光明園1月の報告

〈一行三昧会〉

 元旦の能登での地震、翌日の航空機事故と心痛む年の始まりとなりましたが、七日(日)に13名の方とお念仏をお称えしました。聖歌は心田田植歌「歓喜の朝」と「歓喜光」。「又となき日の 今日の日ぞ わが永遠の わかれみち 歓喜みなぎる 身をさゝげ いざやつとめん このひと日」をお称えし、新年の一歩を踏み出させていただきました。
 災害に遭われた方々の一日も早い支援と復興を祈念いたしました。

〈念仏と講話の会〉

 一月二十一日(日)に開催。参加者は10名でした。午前九時から正午までの間、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌(「心田田植歌」)、午後は聖歌(「智慧光」)をお称えし、花輪講師のお話をいただきました。

講話(1月)

花輪智之

 今回の講話では、前回に引き続き「見」仏を超在一神的汎神の宗教体験という観点で深堀する。

1 大宇宙全一の中心
 通仏教は無上の覚体を宇宙全体、法(ダルマ)とも人格ともされる法身(体大)としているが、弁栄聖者は自らの三昧体験から帰納的に、在さざる處なき宇宙全体の絶対中心、三大(体大・相大・用大)円融の中心真髄かつ十二光の核心である万徳円満の霊的人格大ミオヤ(超在一神的汎神、三身即一本有無作の報身、本有法身阿弥陀尊)が私達の心を注ぎ、合一すべき絶対的客体にして絶対的主体であるとお示しになられた。密教の法身説法(大宇宙に遍満する体大法身の自内証)により秘境開説される月輪観(月輪に如来の本誓力の象徴を重ねる観法)をも包み込むように、弁栄聖者は、「たとえ月に目鼻をつけた程でもよいから、いつも心に慈悲の御顔を想いお慕い申して念仏せよ」とご指南なされている。
 河波上人は、キリスト教のクザーヌス等の神秘主義により、弁栄聖者の念仏三昧の体験をなぞり、そこに超越即内在である万有在神論的かつ普遍宗教的な「超越者のまなざし」の神体験を見ておられた。また、神の「まなざし」(神が見る)が私たちの神への「まなざし」(神を見る)の根拠であり、人間を貫いている神のまなざし(聖容)に即して、万物を包含する神が個別の内にあって(縮限)、みずからの内容を展開し、個別が己々に円成すること、そしてそこが到るところに遍在する中心であることをお説きになられた。そして、念仏実践のご指南において、念仏七覚支のうち択法覚支に着目し、三昧仏様の「聖容」全体に心を注ぐ事により、大ミオヤの「まなざし」を実感することと心の中心を大宇宙全一の中心に直結することを重ね合わせておられた。
2 超在一神的汎神の宗教体験
 「見」仏を自力で到達可能な独り事とする「観」仏として捉えるべきではなく、また、諸仏の中の一仏との合一を目指す念仏三昧(たとえ、それが一即一切で間接的に根本仏との合一を目指すものであったとしても)として捉えるべきでもなく、超在一神的汎神の宗教体験(念弥陀三昧)として捉えるべきであろう。念弥陀三昧により平等一切の一人ひとりに向けられた絶対無限の愛であり、何よりも最も親密である本より大宇宙全一にして絶対中心(平等一切に遍在し、一切を統一し、一切の差別現象の根源であり、終局目的として一切衆生をして弥陀即一切諸仏へと摂取する常住不変の万徳)に在ます大ミオヤの「まなざし」すなわち一切の一点一点に全体を挙げて臨在する完全円満な万徳の内容を真実の心の眼として円満に頂いていく。まさに念弥陀三昧は大ミオヤとの親密な関係(神人合一)により完全円満な万徳の内容が我が物となり、個別具体的な活動を通して聖意を発現する、大ミオヤの一大霊性の個体現となる超在一神的汎神の宗教体験である。
 「報身佛は宇宙の中心本尊の理を明さば凡そ物にて體あれば中心あり、其中心を得れば全體を獲得することができる・・・宗と云ふは體の中心である。其宗を挙れば悉く得。・・・最終の絶対界の中心なる独尊の存在を信認して之に帰命信頼するのが宗教とすれば、其絶対的の独尊なる者を佛陀は如何なるものとか教玉へる。即ち是三身の中報身如来である。・・・法身は宇宙全體を總稱したるものにて、報身はその中心である。」(『光明の生活』)
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