光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和6年6月

光明園4月の報告

〈一行三昧会〉

 七日(日)に13名の方が参加され、午前中は、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌「心田田植歌」、午後は、聖歌「歓喜光」、昏暮の礼拝をお称えしました。
 光明園の二代目園主・河波定昌上人の八回忌(祥月命日(四月三日))のご回向をさせていただきました。

〈念仏と講話の会〉

 二十一日(日)に参加者9名で開催されました。午前九時から正午までの間、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌(「念仏三昧」)、午後は聖歌(「念仏七覚支」)をお称えしました。その後、花輪講師のご講話を拝聴しました。(記:佐藤蓮洋)

講話(4月)

花輪智之

 今回の講話では、4月16日より開始されている国立博物館特別展「法然と極楽浄土」にちなみ、弁栄聖者が『宗祖の皮髄』で撰んだ法然上人御道詠のうち説かぬままで残した最後の三首の真意に思いをはせてみる。

〈法然上人御道詠〉
 月かげのいたらぬ里はなけれども
  ながむる人の心にぞすむ
 極楽へつとめてはやくいでたたば
  身のをはりにはまいりつきなん
 生まれてはまづ思ひでん古里に
  契りし友のふかき誠を

法然上人御最期の光景
 法然上人は御最期に、日頃用いていた慈覚大師の九条袈裟をかけ、枕を北にし、面を西にして、「光明徧照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の経文を称えて往生された。宗教哲学者の玉城康四郎氏はその御最期の光景を含む晩年の法然上人の御姿から常に仏の真身を見奉っていたこと、円頓戒の精神(宇宙を貫く法性本然の真理の光)が上人の身心に滲透していること等が極めて重要であることを指摘している。
 常行三昧の行法を日本に持ち帰り、円頓戒を大成した慈覚大師(円仁)は天台密教の確立者である。その天台密教は三蜜加持の根本である能所不二の菩提心の最奥が寂照一如(真如は常に不変で寂滅していながら、現象として隨縁して染浄・凡聖の縁起となって現われる事)や真如法界遍一切処(無始無終本来常住の仏、自性清浄なる如来蔵が常に一切教を説く無中無辺法界の宮が一切処に遍在している事)であることを説いている。
 玉城氏は法然上人の御最期の光景に円頓戒の統括者である盧遮那仏すなわち宇宙仏(仏の真身)の中に、また本国の浄土(ふるさと)の中に身も心も安ろうている姿(安住)を見ていた。そして法然上人の念仏の中に、ダンマ(法)あるいは如来が、主体者に顕わになり、滲透し、ついには通徹するという仏道の原型(仏陀の目覚めの原体験)を看取していた。
法然上人が安住する処
 弁栄聖者が三昧直観された宇宙仏(根本仏)、大宇宙全一の一大人格である大ミオヤ(超在一神的汎神)は、自境界が完全円満な万徳(十二光の統一態である如来蔵性)である常住不変の真実在(大ミオヤの超在一神の面、相対的因縁因果の本因)でありながら、一切衆生をして弥陀即一切諸仏へと摂取する終局目的に向けて大宇宙(十方世界)の一切を自中に発現し、一切を包摂する現象態(大ミオヤの汎神の面、相対的因縁因果が縁現する世界)、真応身(如来のみからだ)である。真応身は常住不変の真実在と円融に常住不変の聖容(常住大悲である完全円満な万徳の現れ)として自己限定し、大宇宙の平等一切に遍在している。
 真応身(常住不変の聖容)は、本より一切の真正面に在まして、一人ひとりの信仰心意と親密な関係をもって、衆生の信愛の念に感応して霊応身(活きた大ミオヤの聖容)を発現しする。そして、その相好光明大霊力の摂化により肉の身の心(無明)を滅する終局として、一切の一人ひとりを超日月光の聖意体現位(真応身との合一)にいたらしめる。
 法然上人が御晩年に見奉っていた仏の真身は、上人の信愛の念に感応して大ミオヤが縁現した聖容でありながら、常住不変である真実在の聖容であろう。そして、生前から法然上人は三昧心により聖意を体現する全分度生の活動(諸仏と等しき覚位の世界である無住処涅槃)に即して、常住不変の真実在である完全円満な万徳(大ミオヤの自境界である自性清浄涅槃)が顕現する境界に安住、すなわち釈尊の三相五徳(感覚、知情意を円満に完成させる光明摂化の終局目的を表現する霊的人格の模範)を追体験されていたのであろう。
法然上人が九条袈裟を身にまとい、ただ一向に念仏する御姿を、如来のみからだと一如である聖意を己が意とする全分度生の御姿として仰ぎみ、その境界に到る実質内容を弁栄聖者の導きにより、倣っていくことがきわめて重要であろう。

 「月を見て 月に心のすむときは 月こそおのが姿なるらめ」(弁栄聖者)

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