光明園 5月の報告
- 〈一行三昧会〉
- 五日(日)に12人の方が参加され、午前中は、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌「清浄光」、午後は、聖歌「諸根悦預讃」、昏暮の礼拝をお称えしました。こどもの日でもあり、茶話会では笹に巻かれたちまきが振舞われ、地域によってことなる「ちまき談義」で盛り上がりました。
- 〈念仏と講話の会〉
- 十九日(日)に参加者16名で開催されました。午前中のお念仏会は、光明会関東支部として五月十七日にお浄土に還られた光明会理事長の矢野司空上人(行蓮社願譽上人法阿吹定司空老和尚)を偲び、晨朝の礼拝、聖歌(「聖きみくに」)、ご回向をさせていただきました。
午後は聖歌(「念仏三昧」)をお称えし、花輪講師のご講話を拝聴しました。
(記:佐藤蓮洋)
◆講話(5月)
花輪 智之
今回の講話では、前回に引き続き弁栄聖者の教えに多大なる影響を及ぼした法然上人の御言葉に思いをはせてみる。
- 1、人をして欣慕せしむる法門
- 大原談義において、法然上人は自らの信仰心の本意を次のように発露されている。
「人をして欣慕せしむる法門は暫く浅近に似たれども自然悟道の蜜意は極めて是深奥なり」
弁栄聖者は『光明の生活』において、上記の御言葉を引き、清浄無垢の霊態となって「彼此三業相捨離せず」(善導大師の親縁釈)という状態になる門を開く宝鑰が至心に深く大ミオヤを愛慕する事にありと御示しになられている。
河波上人は親縁を「人格的神秘主義」と定義され、阿弥陀仏の全人格的内容がそのまま衆生心の上に活現し、はたらき出してくること、善導大師から法然上人を経て弁栄聖者に到る浄土教の系譜には一貫して人格主義の立場があり、弁栄聖者の念仏三昧の実践の核心は善導大師の親縁釈にあったと論じている。
法然上人から派生した西山派では、「彼此三業不相捨離」を核心とする本願の心を機法一体の南無阿弥陀仏(「機」である衆生が念仏する(「南無」)と、「阿弥陀仏」の光に摂めとられ、「法」である「阿弥陀仏」の覚体(無色無相の真如法性)が衆生の一行に入り込み、「阿弥陀仏」と衆生が離れないようになる)の心として憶念し、自力三業の念仏を離れる離三業の念仏を説く。さらに、西山派の流れをくむ時宗に到れば、六字名号そのものを万徳、三心、十界等の万物、万象の根源である阿弥陀仏の真心(無色無相の真如法性)と捉え、機たる身意の三業を離れ、ただ称名する声の中に機法一体の絶対不二が証得される離三業往生(名号が往生する)、すなわち独一(独尊統摂帰趣)名号の念仏を説く。そして両者は、本願や名号に帰するまでの方便(てだて)として、依正二報への欣慕の心を勧める。
一方、弁栄聖者は十界一切のアルファでありオメガである独尊統摂帰趣を核心とする完全円満な万徳の現れである大ミオヤの聖容を、聖名を通して憶念して、真の如来の真面目(真如法性にして本より御姿在します一大人格の完全円満な万徳の内容)を吾がものとし、三業四威儀において不可離の関係を得さしめる欣慕の心、すなわち法然上人が「我は唯仏にいつかあふひ草、心の妻にかけぬ日ぞなき」と詠われた愛慕霊恋こそが霊性を成熟せしめる動機(実には、愛慕霊恋にある心の奥底から湧出し、大愛に満ちる深まりの中で万徳の内容に同化し給う大ミオヤの無縁大悲)であるとお説きになっている。「如来はことに大慈悲ふかくましませば、つねに衆生を愛念し給うこと、しばしもいとまはましまさぬにぞ、あくがるる子の憶念の中に、如来の宛ながら聖き霊なるみすがたは、心眼の前にあらわれ給うこと、いかにありがたきぞや、之を念仏三昧と名づく。但、行住坐臥、つねに如来を憶うこと、子の母をおもう如くにてあれば、現在当来、遠からず仏を拝見したてまつる。」(弁栄聖者)