次は『礼拝儀』にある「至心に回向す」について考えよう。
この「回向」というのは「如来様のお手伝いをします」という意味なんだ。
私たちが毎日しているすべてのこと、
これを如来様のお手伝いと受けとめていくんだ。
お念仏をお称えするのも、勉強も、仕事も、
すべて如来様のお手伝いなんだ。
みんなはなんのために勉強してる?
その答えをすぐいえる?
その答えをハッキリ「如来様のお手伝いするため」といえて
そんな思いで生活してる人、それが「至心に回向」している人なんだ。
総理大臣や校長先生、そういう人が、
「お金持ちになるため」に仕事していたらイヤだね。
「日本のために、学校のみんなのために」仕事していてほしいね。
それと同じように、お念仏を称える人は自分の行動のすべてを、
「如来様のお手伝いのために」と一つにしていくんだ。
ちょっと難しいかな。実をいうと僕は子供のころ、
「如来様のお手伝い」といわれてもよく分からなかった。
でもお念仏を称えて、いろんなことを経験して少しずつ分かってきた。
だから君も今は、まずこれだけは知っておいてほしい。
「お手伝い」をして「だれかの役にたっている」という思い。
実はこの思いが幸せになるための一番の条件なんだ。
とあるところに万引きにケンカ、そんな悪さばかりしている少年がいた。
その少年を何とかしようと、親は夏休みにホームレスのおじさんたちに
たべものを配るボランティアにむりやり連れていきました。
はじめは「くさいヤツ」「道でねているじゃまなヤツ」
と少年は思い、バカバカしくてマンガばっかり読んでたんだ。
でもボランティアの仲間にひっぱられて、食べ物をくばりはじめたんだ。
そうするとホームレスのおじさんに人生を変える言葉をもらったんだ。
「ありがとう」
ぼくは人の役に立つことができるんだ!
その喜びに気付いて、少年の生き方が変わりました。
おいしいものをいっぱい食べても、お金がたくさんあっても
欲しいものがなんでも手に入っても、それは本当の幸せじゃない!
そんなことよりも、だれかの役に立ったり、だれかのお手伝いをしたりして、
「ありがとう」と感謝される。
私達お念仏する人は如来様のお手伝いをして、
如来様に「ありがとう」といってもらえる。これ以上の喜びはないんだ。
だから、そのお手伝いがどんなにつらく苦しいことであっても、
その中に喜びを見つけられるんだ。つらい病気の中でも、
大変な仕事の中でも「ありがとう」という喜びの光に照らされてくるんだ。
そして人生の最後、その光の如来様に迎えられ、包まれていくんだ。