光明の生活を伝えつなごう

機関誌ひかり連載 はじめての念仏 04

機関誌ひかり2024年7・8月号掲載の「はじめての念仏 4」を、見本としてホームページ上に掲載させていただきます。合掌

願誉昭教

別時念仏という修行

◆第百回 唐沢山別時念仏

 毎年八月、長野県上諏訪の阿弥陀寺にて開催される唐沢山別時念仏会は、今年、第百回という節目の時に正当します。大正八年から弁栄上人が指導され、天災やコロナ感染症の影響で何度か休会するなど苦難の年もありましたが、現在まで脈々と継続され、唯一無二の如法の別時念仏道場となっています。
 今回は、その別時念仏という修行道場がどのような修行なのか、未だ参加したことのない人に向けて、特にその「目的」についてお伝えしたいと思います。
 別時念仏というのはその名の通り、特別に時間を設けて励む念仏の修行をいいます。その時間というのは、一日や七日、さらには九十日などの期間を定めてお勤めします。唐沢山では七日間、念仏修行に打ち込みます。私語をすることなく、ただひたすらに仏さまを念い、南無阿弥陀仏と称えます。本堂での南無阿弥陀仏は当然ながら、休憩時も、食事中も、お風呂でも、就寝時も、清掃の時でも南無阿弥陀仏です。ひたすら、仏さまが正面に在すことを心に念い、口に南無阿弥陀仏と称え、身は、仏さまに向かって姿勢を正し、できれば合掌です。また現在、唐沢山では、どうしても正坐がいいという人を除いては、椅子席にて念仏の修行を勤めています。

◆別時念仏の目的 その一「日常のため」

 そもそも念仏の修行というものは、お寺の本堂や、家の仏壇など、特別な場所、特別な時間を設けて勤めるというような限定的な修行が本義ではありません。日常生活のあらゆるシーンの中(行住坐臥)で、お称えするものなのです。つまり、食事中でも、就寝中でも、仕事しているときでも、散歩しているときでも、遊んでいるときでも(笑)、いつでも行ずべき修行なのです。これが第一義の念仏の修行の有様です。したがって、念仏の第一の修行の道場は、お寺の本堂でもなければ、仏壇の前でもなく、また、三昧仏さまの前でもなく、日常生活の中なのです。
 そのような修行のみを精進すれば、もうそれで充分なのですが、それでもときどき自らの弛んだ心を励ますために、この別時行をお勤めします。したがって、日常の生活に活かしていくために、第二義的に非日常である特別な道場に引き籠もり念仏に励むのです。
 そこの所を、法然上人は、『七箇条の起請文』の中で次のように伝えています。

時時別時の念仏を修して心をも身をも励まし調え進むべきなり。日日に六万遍を申せば、七万遍を称うればとてただあるも、いわれたる事にてはあれども、人の心様はいたく目も慣れ耳も慣れぬれば、いそいそと進む心もなく、明暮は心忙しき様にてのみ疎略になりゆくなり。その心を矯め直さん料に、時時別時の念仏はすべきなり。
(『聖典』四巻、三三八頁)
〈現代語訳〉 時々、別時の念仏を修して、心と身を励まし調え、〔信仰心を深め〕進めていくべきです。常日頃、六万、七万遍を称える〔念仏者で〕あれば、それで充分ですが、〔凡夫である〕人の心の様子は、目も耳も慣れてくれば、いそいそと励む心が弱くなり、また日々の忙しさに紛れて〔だんだんと念仏の数も減り、雑念も増えてしまうなど、阿弥陀仏を敬慕する心が〕疎略になってしまうことがあります。そのような〔雑事・俗事などの脇道に逸れ、また堕落しがちな〕心を正していくために、時々別時の念仏を修するべきです。

 弛んだ心を励ますために、また世俗にどっぷりと浸かってしまった心を聖なる方へと方向修正するために、この別時念仏に入行し、漫然とした日々に終止符を打ちたい、そのような動機がこの行へと誘います。

◆別時念仏の目的 その二「見仏」

 そして、別時念仏には、もう一つ重要な目的があります。そのことを伝える、浄土宗の二祖、聖光上人の説示をみておきましょう。
 聖光上人の『西宗要』に、

念仏はこれ見仏三昧を期と為す。而に遅く見え給うが故に疾く見え奉らんが為に別時の念仏を用ゆるなり。(『浄全』十巻、二一〇頁上段)
〈現代語訳〉 念仏は見仏三味〔つまり、阿弥陀仏にお会いすること〕を目的とします。〔日常の念仏のみでは、臨終時に阿弥陀仏とお会いします。〕そのような遅い見仏の時節ではなく、〔現世において〕早く仏さまにお会いできるように別時念仏を実践するのです。
 また、聖光上人は『念仏名義集』の中で、次のように伝えています。

志し思わん事は構て験し一つ行い出さんと思うべし。験と申すは、もしは見仏まいらせんと、もしは異香・光明、加様の目出たからん験一つ見ばや聞かばやと思うべし。
(『浄全』十巻、三七九頁下段~三八〇頁上段)
〈現代語訳〉 〔別時念仏の修行の中で、〕志して思うことは、構えて、霊験一つをこの修行によって現し出したいと思わなければなりません。霊験というのは、たとえば仏さまにお会いしたいと思い、あるいは、〔極楽の〕妙なる香や、〔仏さまの〕光明〔に接する〕ような、めでたい霊験を一つ、〔必ず〕見たい聞きたいと念願すべきです。

 このように聖光上人は、念仏は見仏(仏さまにお会いする)ということが、別時念仏の目的であると随所で説いています。ただ、それらは、常日頃から念仏に勤しむ篤信の在家の念仏者や、また浄土宗の僧侶に向けた、高次の最終的な目的を示した説示であり、別時の道場に初めて入山するような信仰の初歩者に求めるような説示ではありません。この見仏については、丁寧に論ずべき大切なことですので、いずれ詳述したいと思いますが、よくある誤解と初歩者が最初に定めておくべき見仏の心情をここで簡略に伝えておきます。
 誤解についてですが、自力的な「仏を見るぞ」というような思いは誤り。また、「現世にて見仏しなければ救われない」と、救いの要件とするのも大いなる誤り。また、念仏の目的は、「往生であり、見仏を求めて念仏してはならない」というのも誤り。「往生したい」との願いと、「お会いしたい(見尊体)」との願いが一つになっていない愚かな誤りです。
 次に見仏の心情についてですが、弁栄上人の「見仏」に関する説示を丁寧に読むと、初歩者、また愚かな凡夫である私たちに勧める「見仏」というのは、三昧発得と同義の「仏さまに見える」というような崇高な境地に至ることを強く勧めるというよりは、

①仏さまに見えたいとお慕いする感情の念仏をしましょう
②仏さまは実は今、真正面に在して、念仏を称える者と見えて下さっています
とこの二種の見仏の心情を伝えています。①は「見仏したい」(値遇仏)という感情を込めた念仏を勧め、②は、「今見仏中ですよ」(不離仏)と、霊的な存在である仏さまとは、この肉眼では見えることができませんが、実は、真正面に在して、今現在、私たちのこの拙き念仏を聞き、光明をもって応じて下さっています。そのように受け止めて念仏することを弁栄上人はお勧め下さっているのです。
 とはいえ、これもまた初歩者には難しいことです。したがって、まずは、①のように仏さまを感情的に敬慕できるようになりたいと、お育てを仰ぎつつ念仏し、また②は、「真正面に在す」と、とにかく思い込んで勤めてみる。三昧仏さまを見つめて念仏する場合も、最初は掛軸の仏さまとしか念えません。それでも、その掛軸の絵像の仏様に、真仏がピタリと重なり現れて下さっていると念いこんで勤めてみる。必ず仏さまからの法力によってお育てをいただけることでしょう。
 見仏は、「仏に見える」という、念仏者の究極の目的、お育ての極地です。ただ、そのような究極の目的を、現世の中に得ることを主目的とする神秘主義(見仏主義)ではなく、念仏者が念仏中に用いる心得(起行の用心)としての見仏(①②)を、弁栄上人は私たち凡夫や初歩者にやさしく勧め、主目的の「光明のお育て、導きによる生活(光明主義)」を促して下さっているのです。
 大切なところですので、繰り返します。「見仏の境地に至るぞ」というよりも、「会いたい」という感情を込めた親しい念仏(親縁)、「今この声を聞いて下さっている」という近しい念仏(近縁)の心得を伝えているのです。

◆別時念仏の目的 その三「光明のお育て」

 念仏の初歩者は、「仏さまにお会いしたい」と慕わしく思うこともなければ、敬う気持ちも乏しいといえるでしょう。さらにいえば、念仏実践そのものが辛く苦しい修行という認識の人も少なくないでしょう。そのような念仏の初歩者はどのような目的や願いをもってこの別時念仏に臨めばいいのでしょうか。
 実は弁栄上人が、指導された第一回の大正八年、また第二回の大正九年の唐沢山別時念仏会には、僧侶のみならず、念仏を称え始めたばかりの初歩者が多く参加していました。その第二回、大正九年の唐沢山別時の際、弁栄上人がそれら初歩者を含む参加者に向けた法話の聴書が遺されています。京都大学の講師をしていた中井常次郎という方が筆記して下さっています。その中井常次郎氏も、弁栄上人とご縁を結び、信仰の歩みを始めたばかりの初歩者でした。その聴書の最初、おそらく別時念仏会での最初の法話です。

 念仏とは己が心を全く如来に打ち込む事である。自分の暗い心と、如来の光明とが一つになると、暗い心が明るくなる。闇が如何に深くとも、光明には勝てぬ。光明来れば闇は去る。我等の心は無明の闇や罪、汚れある故に、それらを除かねばならぬ。即ち宗教の必要がある。自分が罪悪生死の凡夫だという事を知り、解脱したいという心が起こらねば、宗教を求めない。信仰に入って仏に同化されると、何ともいわれぬ有難さと楽しさを感ずる。生まれながらの人間は人生の目的を知らぬ。けれども、念仏すれば如来の智慧光に照らされて、人生の意義が知れて来る。如来の御姿が見えずとも、誠に信ずれば有難さを感じ、力が湧いて来る。心のロウソクに如来の火がつけば、それから信仰生活が始まる。心に如来の光が着いた時、三昧成れりという。
(中井常次郎氏『乳房のひととせ』下巻)

 この法話の中で示されている目的を端的にいうと、「心に仏さまの明るき光を灯していただく」ということ。その明るい光が灯るとどうなるか、この法話の中で四つ伝えて下さっています。

①自分が罪悪生死の凡夫だと知る
②何ともいわれぬ有難さと楽しさを感ずる
③人生の意義が知れて来る
④如来の御姿が見えずとも、誠に信ずれば有難さを感じ、力が湧いて来る
 ①は自らの暗さや過去の過ちが次々に現出し、辛い作業ですが、それが道を求め、もっと念仏して光明を頂戴したいとのエネルギーになります。何かを洗い清めるとき、垢や汚れが浮き出ることは当然。光が差し込むからこそ、ホコリや汚れ、暗い影が見えてきます。
 ②③④が、本当に得られるのであればぜひ念仏してみたいと思いませんか。この光明による変化(霊化)の事実を伝えようと、自らの実感を込めて、現代的に、具体的に伝えているのが、弁栄上人の光明主義(光明を心に灯した生き方)の真骨頂といえます。
 多くの現代人が今、不安と不満に満ち、愚と不浄を知ってか知らずか、本来無用なものに固執し追い求め、また刹那の快楽に溺れ、生きる意味を知らず、人間関係のストレス、愛する者との別れ、情けない自分、生活苦、戦災天災人災などの不条理に苦悩しています。まさにこの世は娑婆(耐え忍ぶ所)です。
 そんな娑婆の俗事のただ中にて生活する者に、聖なるものに触れ得る最高の環境が別時念仏であると思います。また、その道場の中でも唐沢山という環境は、神聖な霊気漂う特別な霊地であることは、おそらく参加したすべての者が実感するところでしょう。
 自らの人生の緊急事態に直面し、その答えを求める念仏でもよし、また人生の道を求めて仏さまに相談するもよし、亡き方の供養にと参加するもよし、また、速やかに信仰の心を進めたい、仏さまへの念いを深めたいという志の念仏はとてもよし。ともかく、真剣(至誠心)に念仏する者には、「心の所願に随って」必ず光明のお育てと導きがあることでしょう。先の聖光上人『念仏名義集』に、見仏のみならず、「光明、加様の目出たからん験一つ見ばや聞かばやと思うべし」とあり、①②③④の内容は、この「光明」の「目出たからん験」の具体的説示といえます。

◆仏さまからのギフト

 昭和四十五年、佐藤菊納とい方が最愛の兄との死別と仕事上の苦悩を抱えつつ唐沢山別時に参加しました。その修行後の感想に、「私はこの六日間の別時でたびたび、異変を覚え満願の前日からは今まで経験しなかった心身状態となり、お念仏中に茫然となり涙はとめどなく溢れ出て、心は晴々と明かるく何とも云えない安らぎを得ることができました。〔中略〕顧みますと、この時の別時参加は私の信仰生活の一大転機であった」(『念仏功徳霊験集』十二号、四~五頁)と述懐しています。
 念仏と本気(至誠心)、この二つをもって行ずれば、必ず仏さまからのギフト(光明のお育て、一大転機)を拝受することでしょう。ぜひこの夏、世俗の万難を排し、別時行中の仏さまからのギフトを体得していただきたくお誘い申し上げます。  
合掌

 このようにお伝えすると、「私にはそんな厳しそうな修行、ついていけそうにない」と躊躇する方もいらっしゃることでしょう。確かに厳しい修行です。ですが、真剣に人生の道を求める者にとっては、ただ厳しく辛いだけの修行ではなく、そこには大いなる悦び、また大いなる懺悔、そして、念仏が人生の核となり、また人生の使命が明確になるなど、意の所願に随って、仏さまからギフトが与えられることでしょう。
 実際にそのギフトを受け取ったであろう方々を数多く垣間見てきました。そのギフト(念仏の功徳)の内容については、秘して語るべきではありませんので、その心の内実は知り得ませんが、大きく三種の現象のいずれかの形で表出しています。
 
 一つ目は表情。入山のときの苦悩に満ちた暗い表情の方が、下山の頃には、まったく別の、晴れやかで明るい表情で下山していく姿に変化しています。これを霊化や光化と表現していいのでしょう。
 二つ目は涙。別時期間中、突如として泉のように湧き出る涙の姿。その涙の理由を後日お尋ねすると皆様々です。歓喜、懺悔(後悔)、先立った方との対話、説明困難などの理由があげられます。
 三つ目は見え方の変化。別時期間中、なんの気付きもまた体験もなかった。しかし、下山し日常生活に戻ったとき、日常の景色や他者などが違って見える、もしくは違って受け止めることができるなどの変化に驚くということがあります。

 一概に参加者すべての方が、何らかの気付きやギフトがあるとはいえませんが、それでも、真剣に愚直に仏さまが、私の正面に在して、導いて下さると信じ切ってお勤めすることが肝要です。そのような求道者には、その心と修行の様子(形相)に応じて、「生けらば念仏の功つもり」と、法然上人が常に述べておられた通り、なんらかのギフト(功、恩寵)が与えられることでしょう。

  • 更新履歴

  •