編集室より
連載中の、熊野好月尼著『さえられぬ光に遇いて』をここに掲載いたします。
好月尼の苦悩から、弁栄上人との出会い、そしてその後の歓喜の歩みが、読者の指南となることと存じます。
さえられぬ光に遇いて 13 熊野好月
七、お授戒について つづき
弁栄上人の法話聴書①
「たとえば杉の種をまいて芽生えても一時に大きな杉の木とならぬように仏様のお慈悲をいただいて段々とお育てを受けるのである。我々に無始以来、多くの業障を持っていて、初めは如来様のいます事、尊いという事さえわからぬ。至心に懴悔し、念仏する時、次第に光が入って来て罪の深い事もわかって来るのである。信仰心のない人は人の悪は見えても、自分の悪い所は見えぬ。ただ如来様のみ光に照らされてのみ己が罪に気付くのである。こうして人として生かされているその事が、すでに大きな御恩ではないか。まして耳に聞き、眼に見る事等の能を与えていただいた御恩を忘れて、これを我欲のために悪用し、かえって恩を仇にかえしている。如来様は親なればこそ益々あわれと思し召して救いの御手をさしのべ給う。もし他人ならば殺すであろう。戒法は実に如来の大道を教えるいわば父の憲法ともいうべきで、これを守らなければ人に生まれた甲斐はないのである。しかし信仰に入ったばかりのものは赤子である。赤子はただ親を慕って泣くばかりである。その泣く声(念仏)によって慈悲のふところに抱かれ、親に離れぬところに、真に育てられるので、念仏はいわば母の慈悲である。
念仏する処に、
一、清浄光によって罪消ゆ(摂律儀戒)
二、一切の善が心に備わる(摂善法戒)
三、真にみ親を信ずれば一切衆生は兄弟である、お互いに思いあうようになる
(饒益有情戒)
南無と如来様に心を捧げてしまう。そうすれば如来様は新しい心(即ち娑婆の心を如来心)と入れかえて下さる。一心に念仏し、み親にすがりさえすれば戒はおのずと我がものとなるのである。」
とねんごろにお諭し下さいました。
十重禁戒の内では殺生戒の中に他のすべてを含めてお話になったようにさえ感じられました。即ち「霊性を殺すようなすべての所作をなすなかれ」霊性を生かすべくすべてを生かせ、生き物の命を取るばかりが殺生ではない。あらゆるものを、ただ霊性を育てるべく役立たせ、生かせ慎めよと呼びつづけられたように聞き取られました。
これを承りまして、私は自分の日常の所作を一々、反照して見ますに、悉く周囲のものを傷つけ、殺し、霊性の上にくもりをもち来す生活でしかないのに気づき、思わず身ぶるいと戦きを感ぜずにはおられませんでした。人に対すれば人の心を暗くし、物を粗末にし、居所を荒らし、一挙一動皆自他を害せぬ所作とてはないのでした。
それにひきかえ、上人様の日常を拝し奉るにほんの意味もない動作と見えるその中にも無限の生かす力のほとばしりを感じ、手の動くところ眼の向かうところ、そのままが、物みなを生かし、かがやきを増さしむるのでした。肉体より光の波のゆらぎ出ずるが如き感じ、ああ何たる月とすっぽんのような差でございましょう。お念仏の他に救わるる道なき私である事を、この授戒会によって、いよいよはっきりとわからせていただきました。
昔、善導大師、三品の懴悔を説いて、上品の懴悔は眼より血の涙を流し、全身の毛穴より血の汗を出して無始以来の罪を懴悔し、中品の懴悔は総身より汗を流し、下品の懴悔は涙が出て来るのであるとの事を聞きまして、勝れた方は、一切衆生の罪を我が罪として微に入り細に渡っての懴悔をなさるのに無慚無愧のこの身、頭だけを隠して平気でおる己が心の姿を、今ぞ貴き聖者の徳の光にて、まざまざと照らし出されまして、恥ずかしさやる方なく、如来の宝前に初めて心からなる懴悔の涙もてひれ伏したのでございます。
八、弁栄上人のご法話片々(特に感じたもの)
1 胎内にある児は養われつつも味わいを感ぜぬように、念仏も初めは何の味わいも感ぜぬ。
2 生まれ出た赤ん坊は本能的に乳を求めるように、念仏に味がわからずとも何となしに申したくなる。
3 赤ん坊が段々育てられると乳の味がわかってきてほしくなるように、念仏も次第に味が出てくる。
4 ついには甘酸等五つの味がわかり、後には変わった味や、固いもの等を欲するように、法喜(春に花開きたるが如き霊的気分)禅悦(三昧中に感ずる悦び)等、えもいわれぬ趣味が念仏の中に味わわれてくるようになる。
- 助けるという意味
たとえば捨て子を助ける時に、家に連れて帰って箪笥の中にしまっておく事ではなく、育て生かす事である。人の心が救われるというのも極楽にしまっておく事でなく、心霊の上に育てられる事である。念仏は死ぬためでなく生きている内に心霊的に助けられ生かされるために申すのである。 - もし念仏がいやになり味がなくなったら、それはちょうど食欲がおこらぬのは胃腸に故障があるためであると同じく、心霊的に故障を生じたためである。健全に育てらるる時はつねに新しい食物(念仏)の要求がある。
- 人に生まれて真に進もうとすれば努力しなければならぬ。磨き出す必要がある。
みがく必要のないのは金剛石でなくて庭の捨て石である。
私達、仏教といえば手も届かぬ深遠な難しいものであり、また一面には死んだ先の事を司るものであって、どちらにしても今の私には縁の遠いものと思い込んでおりました。
上人のご法話は、一々が耳新しく遠い先の事でなく、日々否一刻もゆるがせにできない理窟でなく早速実践すべきもの、体験してこそ深遠な教えも味わう事ができるものである事が分かりました。ひしひしと胸にこたえるご法話の数々は今まで知らず知らずに転倒した心の向き方の間違いを一つ一つ気付かせて下さいました。
日頃うっかり習慣として、気もつかずにいた事柄について反省させて下さいました。
〔つづく〕