光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成25年4月

西蓮寺例会

  

内藤 規利子

西蓮寺には赤の山茶花が咲き、赤白の梅がかわいく蕾を付けていました。書院の廊下には何ときれいな色……と思われるサイネリアが2鉢。早速カメラに納めたけれどあの色は出ない。残念!!。2月17日大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。

弁栄聖者のお慈悲のたより5をお読みくださいました。

心の中に本尊様をおすえ申し置くということでね、御本尊様は皆様お参りであそこにおられるでしょうということで分かるように一番頼りになるのはあそこにおられる仏様で、あの仏様はお釈迦様のお姿を示しています。

その中味は、お釈迦様は80歳でお亡くなりになったけれど、なくならない命を私はしっかりいただいておったんだよと。これからも私がいただいた命の大元は、私の体はなくなるけれども、命の大元はしっかり受け取ってもらいたいということで、お釈迦様は亡くなられた。御姿はなくなってしまったけれども、お釈迦様の御心はちゃんと残っておりますよ、ということを御仏像としてえがいていくことになるんですね。

私と仏様の関係はどうなるか、考えても説明が付くようで付かないものがある。信ずれば御姿がいただけますよ、ということで信ずることの一番大切な仕方として心の中にはっきりと分かってくるということが大切だということで、仏教ではね、信ずるといってもただ「分かりました」というだけでは駄目で、それを本当に分かるためには修行をしないとダメという考え方がはっきりしてきた。それで皆さんが「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と称えている間に自分の心が透明な湖のようになってくる。心がしっかりきれいになっていくと摩周湖のように下の方まで見通せるように、自分の心を修行でずうっとしてきた人には、お釈迦様のおっしゃっていたことがその通りだと分かるようになる。「南無阿弥陀仏」と称えていると、向こうとこちらの境がだんだんなくなって、称えている自分が本当に、私の中に仏様がおって下さるなあということが、その通りだという心にさせていただけるということで、念仏の行とか大切だということを感じとってきている訳です。しかし称えるということでもなかなか難しい問題があって「お念仏しても私ちっともなれませんわ」という方もある。そこがまた、人の心というものは難しいことだが、そのためにいろいろな手段でそういう人でも何も心配することはないよ。称えても心が透明にならないよなんていう気持ちでいなくてもいいよ。ある時ぽっと分かることもあるし、また分からんでも大きな仏様が守っていなさるということは間違いないことだから。もういろんな手段を尽くして体験された方々からちゃんと言って下さる。そのひとつとして弁栄聖者が「お慈悲のたより」を書いて下さっています。

ここからは内藤のことです。

昨年仲間由紀恵さん主演のテレビドラマ「ゴースト・ママ」を見ました。職務中に突然命を落としてしまった婦人警官の蝶子さんが幼子の「とんぼ」のことが心配で天国に行けずゴースト(幽霊)になってしまい、子供の成長を見守っている。「とんぼ」はどんどん成長していくが、「とんぼ」は自分が頑張っているとママが天国へ行ってしまうからと元気をなくしてしまうが、ママの上司のゴーストに諭され元気になる。それを見てママは金色のキラキラ輝く光の中に昇天して行く。そしてママの声が聞こえてくる。家族が笑顔でいることの喜び、支え合っていくことの素晴らしさ、悲しいことがあってもそれを乗り越えて生きていく強さ、人は死んでも終わりではないということ、そして自分のことを覚えていてくれる人がいる限りみんなの心の中に生き続けて行くということ、みんな笑顔で元気に前を向いて歩いて行こう!!。「大丈夫、私はいつでもここにいるよ」。「とんぼ」が「お母さん!!」と呼びかける。「とんぼ!! ここにいるよ!!」「お母さん!!」。で終わるのですが、私はこのドラマを見て、お母さん(またはお父さん)を亡くされたお子様達が、お母さんはいつも守っているから元気で生きてほしいと思って見ていました。

以前から私は仏様が私達の本当のお母さんだと聞いております。仏様に「私はいつでもここにいるよ」と言われたような気がして涙があふれてしまいました。私が仏様を忘れている時でも「いつでもここにいるよ」と守って下さっているような気がします。

奥様のオルガンで「灯」を皆でうたいました。

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