西蓮寺例会
内藤規利子
西蓮寺にはピンクの椿、ろう梅が咲き赤白の梅が蕾をつけ玄関前には葉牡丹が勢揃いしていました。玄関を上ると見たこともないような大輪の百合と南天の赤い実が活けられていました。1月19日大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。
ひかり誌12月号に書いた「朝のことば」を皆で読みました。朝起きたらこれくらいのことは家中で称えてみようか…。毎日やるのは大変だから月に一度くらいはこういう日を持つことが大事でしょうね。昔は合掌して食事など頂いたものだと思うんですよね。今は合掌するのは恥ずかしい、こんなことはようやらん、こうなっているんですね。合掌はインドで起こった礼儀作法なんですよ。日本人でも有り難いなぁ…というような時、ありがとう!! と合掌するじゃないですか。真心から相手を尊敬し感謝するという時、自然に合掌になりますよ。インド人は皆合掌します。「ナマステェー」。「ステェー」あなたを「ナマ」お敬いしますよ。南無阿弥陀佛の南無の語源は一緒なんです。ヒマラヤの山なんかでは、登る人下りる人とすれ違う時「ナマステェー」と言うと相手もニッコリして「ナマステェー」と言う。言葉ひとつでいっぺんに二人の関係が親しくなる。言葉というのは不思議ですよ。日本の「こんにちは」もそうですね。黙って通り過ぎるのと「こんにちは」って言うのと違うじゃないですか。混雑していても「あぁちょっとすみません」と言うだけで、相手の気持ちは柔らかくなって「どうぞどうぞ」と言う。黙って押しのけたら「何をするんだ!!」って喧嘩になりますよね。言葉というものは通い合う共通したものをもつ気持ちになったら随分お互いの感じは変わってくる。
それを南無阿弥陀佛ということで法然上人がお経でも「ナム」とか「アミダ」とか「ブツ」という言葉がばらばらになっていたのをひとつがらみにして南無阿弥陀仏はこんな深い意味を持っているんだよとはっきり論証された。自分の体験で南無阿弥陀佛と称えれば他の人が称えていても自分と同じ気持ちで称えているんだなということになって、法然上人がおっしゃったことが大学者でもあるからその方の言われたことは間違いないと簡単な言葉だけれどもどのお経様を暗記しているよりもこの方が値打ちがある。法然上人のおっしゃったことは間違いないと南無阿弥陀佛と時間はかかったけれど広がって行った。源平の戦いで皆んな生きがいがほとんどなく死ぬということが意味が分からずどうしてこんな哀れな中で死んでいくのかと寂しい人でも南無阿弥陀佛と称えればちゃんとアミダ様が守って下さって最後どんな死に方をしても極楽浄土でちゃんと幸せになれるんだよと法然上人がおっしゃり、それをお弟子方に伝えてお弟子方がちゃんとそういう気持ちで広げていきました。
奥様のオルガンで「灯」をうたい娘のピアノで「心田田植歌」をうたいました。