光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成27年1月

西蓮寺例会

内藤規利子

西蓮寺の楠は青空にそびえ銀杏は半分ほど黄色くなり、赤と白の椿・赤白染め分けの大輪の椿が咲き、橙色と赤の千両の実がとてもきれいで、菩提樹の実も色付いていました。

都合で11月30日に弁栄聖者御祥当別時が大田敬光上人御指導で催されました。暖かい日でコートもいらず弁栄聖者倶会一処塔の前で礼拝儀をあげお参りしました。その後、暖かかったせいかお上人様は境内にあるお地蔵様のお話をして下さいました。四百年ほど前に清須で西蓮寺さんができた時からいらっしゃるというお地蔵様と子育て地蔵様を拝んでから東門のお向かいのお寺さんに御安置されているお地蔵様を拝みに行きました。右手に持っている錫杖は戦争の時に金属の供出をしなければならなかった時も供出を免れ、悪人が盗ろうとした時もその悪人が盗る時にひっくり返って怪我をするということがあって盗られずにすんで今でもこうして持っていらっしゃるとお話し下さいました。上の環が大分風化していました。

天井まである立派な石の拓本の掛軸(田中木叉上人がお作りになった文章がまとめてある)の「弁栄聖者の御一生」を説明しながらお読み下さいました。

弁栄聖者は御絵像の三昧仏様の前でお念仏すると心が落ちつき心を通わすことが一番しやすいということで皆様におすすめになったのですね。三昧という言葉はよくありますけれどもこれはインドのサマージュという言葉で等しく横につながっているようなこと。皆様の心と仏様の心が「ひとつながり」になってちょうど水が穏やかになっている時はどんなに水が沢山あっても揺れなければスーッと横に広がっているでしょ。自分の心と仏様の心がひとつながりになって行き違いもせずにこぼれ落ちるとかそういうことをしない心の非常に純粋な状態でね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と今まで波立っているような心の動揺がだんだん仏様を中心にして南無阿弥陀仏と称える時に目をつぶっているくらいが良いと山本空外上人はいつも言っておられ目を開けていると外のことに気を取られて心が動揺する。目を薄目にして薄い光を目に入れるくらいにして仏様の前にいるとだんだん心が平静になっていくといつの間にやら仏様の心が自分の中にいただけるようになって心が非常に落ちついた深い静かな心にさせていただけますよ。それをサマージュという。皆さんが仏様の前でお念仏する時、最初は一生懸命やっていても何か何の為にお念仏をしているか分からんように心が動揺してくる時があるがこれは間違っているなということで心を純粋なものにしていくというその中でひとつひとつだんだん自分に習慣づけられてその心がいざという時には瞬間的に良い悪いを判断できるような心にさせていただける。お念仏をよくする人は不思議なことが起こるということがよくありますよ。ある方が連絡船のタラップまで上がったけれどどうしても乗りたくなくて下りて転覆を免れたとか、山本空外上人のように混んだ列車に無理してでも乗らなかったお陰で原爆に合わずにすんだように…。迷信でも何でもない不思議なことにお念仏を喜ぶ人は多かれ少なかれそういう心が自分の中にいただけるということを自覚しながら静かにお念仏を申して下さい。

奥様のオルガンで「弁栄聖者哀悼曲」と「いかなる日にも」を皆でうたいました。

ここから内藤のことです。

まだ紅葉には早いかなと思う頃、友人に誘われて神戸、有馬温泉(泊)京都のお寺参りのバスの旅に出ました。あきらめていた紅葉が所々でとってもきれい! くすんだ紫色のモミジに出会った時はえっ! 何これ? こんなの初めて…。天竜寺では外国人ばかりで自分が外国に行ったように錯覚が…。誰もいなかったあるお寺さんは三方の戸が開いていて友人は「私は子供の時、お寺さんがいつでもこうして戸を開けていてね、いつもこういう所で遊んでいたの、だからすごく嬉しい!」と言って出たり入ったりして喜んでいました。この友人はとても忙しい方ですが家の孫娘が生まれた時、見に来て下さいました。部屋へ入るなり三昧仏様が目に入ったんですね。「あっ! 阿弥陀様だ!!」すっと合掌して南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。と称えて赤ちゃんの顔を見て「イタチの御年始」のように帰っていかれました。家に入ってくる方も結構いらっしゃるのですが即刻手を合わせ、お念仏を称えた方はほとんどいません。子供の頃お寺さんの仏様の前で遊んでいたことで仏縁を結ばれたのだと思います。

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