第30回大厳寺別時念仏会
植西 武子
◇日時 9月15日(金)~17日(日)
◇場所 大厳寺(千葉市中央区大厳寺町)
◇導師 河波定昌上人
◇参加者 40数名
例年のように幼稚園、保育園、淑徳大学関係から各数名の先生方が参加されました。また大厳寺様関係の方々、光明園からは例会を兼ねて関係者が各数名。金田昭教上人は2人の友人を誘ってお見えになりました。人を誘うのはなかなか難しいことです。立派だと感心しています。
大変嬉しく思ったことは四国・徳島から中年の女性が見えたことです。「法のつどい」でも見覚えのお顔でした。勤めをやりくりして、ご自分の誕生日祝いとして来られたとのこと。素晴らしい決断だと思いました。(昔は四国も或る地域では光明会活動が大変盛んであったと聞いていますが、現在は殆ど影を潜めているようです。)職場の方が「ひかり」を示して「法のつどい」に行くことを勧められたそうです。ご縁の灯は決して消えないでいることを確認した思いでした。この灯を更に大きな炎とするようにみんなで頑張っていかねばと思いました。
ご法話
3日間で午前、午後6回ありましたが、私は都合で3回しかお聴きできず、その概略です。
- 16日午前
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弁栄聖者が大谷仙界上人に宛てられた「お慈悲のたより」を中心に前日に続いての講話でした。
「大ミオヤはいつも離れずあなたの真正面に在しまして・・・」の「真正面」の憶いが大切で、お念仏する時はいつも安心の決定が重要である。「専らにして専らなる」とは「一心不乱」ということで「阿弥陀経」の中に述べられている。田中木叉上人は「一心不乱」は「一心不乱する」という気持ちで念仏するよう言われた。とは言え、襲い来る故起、串習の妄念に悩まされる。それを断ち切ろうと努力する時、「妄念の葦繁けれど月宿るなり」で三力加被、即ち①大誓願力(威神力)、②三昧定力(法界定力)、③本功徳力(如来蔵)が備わってくる。
「あなたの心はみだの御慈悲の面にうつり御慈悲の面はあなたの心にうつり」の「うつり」は「映り」「写り」「移り」の意味を含んでいて、入我我入、感応道交の境地である。このように修行の内容を具体的に立ち入って説明していることは他に例をみることがない。
- 16日午後
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「お慈悲のたより」は法然上人の「一枚起請文」とも言えるものである。お念仏をする時は何度も繰り返し読むと良い
この「祈りの方法」はヨーロッパにおいても見られる。ニコラウス・クザーヌースはその著「見神論(visioDei)(1453年)の中で正面に神が在すことと霊糧のすばらしさについて言及し、「神の姿を通して神を拝みなさい、祈りの中で喜びが溢れ出る」と述べている。
仏教では愛楽仏味為食(仏法の味はこの世のどんな味にも変えられない)となり、弁栄聖者は田中木叉上人への手紙の中で「念々弥陀の恩寵に育まれ、声々大悲の霊養を蒙る」とも言っておられる。霊養とは受養(じゅゆう=食)とも言い、報身のことを受用身または食身とも言う。
「青い稲葉はその中に 白いお米のみのるため 死ぬるからだはその中に 死なぬいのちのそだつため」(田中木叉) お念仏とは阿弥陀様に根付いていくことである。
- 17日午前
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一枚起請文の「ただ一向に念仏すべし」は全てを含み充分であるが、「お慈悲のたより」には大乗仏教の根幹とも言えるものが含まれている。
しかもキリスト教の中にも同様の思想が生きている。ドイツ神秘主義が台頭していた頃、ヨハネス・タウラーによる「Gelassnheit(放下)」は「おまかせ」の意味でその片鱗を示している。ハイデッガーは「ふるさとの喪失」について論じたが、「ふるさと」とは魂の帰るべきところを意味している。
「たましいの行く先ここと定めおき うき世のことは柳なりけり(荒巻くめ女)の詩が彷彿される。
手紙の中の「あなたの心はなくなりて・・・」は大乗仏教の根幹をなす。即ち「空」を意味し「般若波羅密」の境地である。「空」の思想は仏塔崇拝に端を発して、主客の対立を超えたものである。
「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月(明恵上人)」これは月を見る私と空の月が一体化したもので主客の対立がなくなっている状態である。念仏の中に「空」が現象してくるのである。
「空」の実現とは①自由であり、②平等である。①自由とは自分自身からの解放(観自在菩薩)、②平等とは「空」を前提に存在するものである。無問自説の経典といわれる維摩経で、舎利弗(男性であるが女装している)は男か女かの問いに、念仏の中では男女は関係なく平等であると説かれている。一般に「平等」について語る際、まず「人権」が論じられるが、この時「権にして神を出でざるはなし」の立場で神を否定している。自分自身を脱却してこそ平等を論ずべきである。実に南無阿弥陀仏は人権の脱構築(deconstraction)なのである。
大厳寺寸描
毎年、本別時に参加し、広大な敷地と伝統ある建物を目の当たりして詳しくその沿革を知りたいとかねがね思っておりました。頂いたパンフレットにより、その概略を紹介しますと・・・
※正式には龍沢山玄忠院大厳寺と称し、1551年に浄土宗の高僧、道誉貞把上人によって開創された。10年後に本堂等が落成し、学寮が40有余建てられた。開山上人を慕って如何に多くの学僧が集まったかを物語っている。徳川家康公と親交のあった第二世、全国に36の新寺を建立した第三世等、浄土宗を代表する高僧の名が連なる由緒ある寺である。江戸時代に檀林制度が確立すると関東十八檀林に指定され、僧侶の教育機関として非常に栄えた。
明治時代の檀林制度の廃止や第二次世界大戦後の農地改革により多大の打撃を受けたが、法灯は継承された。昭和26年に長谷川良信上人が第六十世として晋山。良信上人は若い頃より社会福祉事業に熱い思いをもって取り組まれた。信仰の殿堂である寺院と仏の慈悲を具現する社会福祉事業と指導者を養成する大学の三者を一体化するため、大厳寺文化苑を整備し、昭和40年に淑徳大学を設立された。短期大学、保育専門学校、高等学校、中学校、小学校、幼稚園、保育園等総合教育施設を有する大乗淑徳学園を創設され、現在長谷川匡俊上人が学長として、ご活躍されている。
大乗淑徳学園山中湖研修センターは、親子別時の会場として過去数年利用させて頂いた。
別時雑感
今年は涼しい気候に恵まれ、快適な環境でお念仏をさせて頂きました。
河波定昌上人は唐沢山に引き続いてのご指導でお疲れではないかと案じましたが、大変お元気で熱心にご指導下さいました。
若い先生方は熱心に拝聴されておりました。中には初めての方もおられるとお聞きしましたが、長いお念仏も木魚の音も合わせて一心に取り組んでおられました。教育には指導者が宗教心をもって当たることが何より大切です。先生方にご縁が結ばれますようにと願いました。
毎年のことながら、先生方は食事の配膳や後片づけ、清掃等すべてをして下さいますので、申し訳なく思います。朝食は奥様を中心にお寺でご準備下さいます。お心の籠った家庭の味を有難く頂戴させて頂きました。「これが何より楽しみだ」とある男性に言わしめるほど安らぎを感じさせます。休憩時間は広い敷地内を散策します。山門より本堂までの緑の樹木が茂り、所々に勢至丸の像や学問の碑が置かれ、お念仏をしながらの散策となります。「懐古園」と名付けられている裏庭は緑の芝生が一面に広がり、手前に円形に植えられたサルビアの赤と遠くに咲く芙蓉の白が遠近感を一層深め、澄み切った秋の空の下で素晴らしい空間を醸し出していました。
長谷川匡俊お上人様、副住職様、奥様のご尽力によって今年もお別時を有意義に受けさせて頂きました。ご一家上げての心温まるお別時は他ではだんだん見られなくなりました。30周年をお祝いし、心より感謝申し上げます。
横浜光明会
犬飼 春雄
9月28日(木)慶運寺にて午後1時より 河村昌一先生のご指導で光明会は執行される。開会前に到着された先生は第一番目に笹本戒浄上人の墓域に趣き、香を手向けられるのを常とされる。写真はその折のものである。
晨朝の礼拝・帰命三礼・至心に帰命す・如来光明歎徳章・至心に讃礼す・光明摂取の文・念仏三昧・総回向の文・至心に発願す・帰命三礼・聖歌(七覚支)
御法話(み教え)下巻101ページ第一 往生=更正は(一)を中心にしてお話を拝聴した。精神の更正は、年齢・閲歴経験により差異は当然である。それを、同行同所に導けるようにつとめる姿勢が「念仏」に帰一することではなかろうか。
念仏を常時常態とも怠りなく称する河村先生のお姿こそ後進の見習うべき点であろう。先生は、念仏に工夫なかるべからずと話され、毎朝、朝日に向かって礼をするといわれた。朝の新鮮な気を体内に入れることであるが、近頃は目にしなくなった風景だ。自立心を養える好機ともなるのではなかろうか。このように、年嵩の方の言動を保持していかねばならぬと思った。
笹本戒浄上人が、自坊で亡くなられた時、一番早くお寺に馳せ参じられたのが河村先生で、お上人のご様子を目の当たりにされたそうだ。もっとも印象に残ったことは、お顔がにこやかであったと語られた。宗教を通しての人生の終着はかくあることであろうか。平成19年は、戒浄上人の七十回忌である。
東京光明会10月例会
植西 武子
◇日時 10月28日(土) 13時~16時
◇場所 一行院
◇導師 八木上人
◇参加者 15名
爽やかな秋空の下、急ぎ足で歩くと汗ばむような好天に恵まれました。8月は例会が無く、9月は千葉の大厳寺別時と重なりご無礼したため、2ヶ月ぶりに懐かしい気分で一行院の門をくぐりました。一時間のお念仏の後、お上人様より東京光明会の大先輩であられた栗山巳紀雄氏が9月21日に101歳の長寿を全うされ、お浄土にお帰りになったとお知らせがありました。ご家族の方から連絡があり、八木上人様に回向をお願いされたそうです。みんなで心よりご回向し、順次ご焼香をしました。
ここ数年お姿が見えずどうしていらっしゃるのかと思っておりました。私は数回しかお出会いする機会がなく、お話することもありませんでしたが、遠くから尊敬していたお方でした。会合の時もあまりお話されることなく控え目でみなさんの話を黙って聞いておられましたが、深くお念仏をしておられる方だと感じることができました。近頃次々に先輩諸氏が逝去されていくのは淋しい限りです。ありし日のお姿を思いつつ、ご冥福をお祈りしました。
ご法話
今回から「弁栄上人の片影」(山崎弁誡著)がテキストです。
八木上人はまず「本書は五香の善光寺初代住職山崎弁誡上人が聖者の日々の生活の中での出来事を書きとめられたもので、「日本の光」にも書かれていない内容もあり、聖者の当時のご様子を身近に伺い知ることができる。現住職山崎弁戒上人が聖者70回忌記念として再版されたもので新仮名づかいになっている」とお話になりました。ご法話は本を読みながら、随所にお上人様が説明、解説されました。今月は3頁から13頁まででした。
- 聖者ご出生頃の鷲の谷の状況
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常磐線で東京より東20哩の我孫子に一駅あり。町に沿って南に数町に加賀沼と言う沼があり、水清く風光に恵まれている。岩井渡船場を南に数町行けば緑樹鬱蒼たる部落がある。開村一千年に足利氏の影武者とおぼしき人達が帰農する。信濃の徳者経誉上人が来村して一宇を建立される。さらに壇林小金東漸寺も造営される。
東京の信者に宛られた手紙から読経、施餓鬼、法会等非常に忙しい日々を過ごされている様子を伺い知ることができる。さらにその頃から有志の者が集まり、聖者に法益を乞う。当時この地には日蓮宗、真言宗、浄土宗等の宗派の信者があり、さらに耶蘇経の信者もあった。毎回20名から30名の男子(なぜか女性の参加者は無かった様子。時代の世相を反映していると思う)が集い熱心に各自の信奉する宗はの神髄について聖者に教えを乞うたと言う。みな因縁話には飽きたらず各派の宗道を究めんと熱心に聖者の話に傾聴したと言う。年齢は20歳から40歳で若き情熱に溢れ夜遅くまでの法談が続いた。この村人達は元来軍談や書物に関心が深く、このように法談を好む人が多いのは不思議と思われるが、それは聖者のお徳によるものであり、この地の人々の求道心の篤さをも物語っている。
- 念仏嘉平
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聖者の御生家は古くより念仏篤信の家系で特に祖母に当たる方は五重相伝を受けてより、日課念仏九千遍を誓約し、積もりて一千二百万遍に達したと言う記録が残っているそうである。聖者の母は慈悲深く、父は「念仏嘉平」と呼ばれ、付近で知らない人は誰も無かったと言う。常に称名念仏し、仕事の合間もお念珠を放さず、訪れ来る人は誰でも隔てなく遇せられた。夕餉の後や雨の日は使用人も含めて仏前にて読経念仏され、四方山の信仰談をするのが何よりの楽しみであったそうである。
- 東漸寺時代
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東漸寺にて大康上人に奉仕されている時、昼は広い境内、本堂、庫裡の清掃から炊事、風呂、薪割り、豆腐屋・酒屋の使いに至るまで奔走し、夜は遅くまで読書、勉学に勤しまれ、睡眠時間は僅か3時間に満たなかったと言う。後日省みて「あの当時は3時間ばかりの間に5、6時間分も眠らなければならないので全速力で眠った。横になると2、3丁担がれていっても少しも気がつかなかっただろう。」と人に話されたそうである。
- 筑波山での御修行
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上人は筑波山中で華厳教章の真理を実証せんとして、山麓にある宿に着き昼食を済まされるとあと20銭しか残っていなかった。それも人に与えて無一文で山に登られたと言う。(決意の程が伺える)御修行中の消息について聞かれた時、昼間は人が来るので巌窟にこもり、夜は一人山上に出て念仏瞑想する。
「やがて間として声なく、大なる山であるが、山全体が我が体になってしまった。ホントに良い心地でした。」と語られた。
(「星を求める蛾の願い」、誰もが憧れ、切望する境地である) 山上に立身岩と言う大岩の下に巌窟があり、上人は最初1ヶ月ほどここで修行された。その間に二度霊夢を感見された。一度目は最初に金竜が現れ、やがて文殊菩薩、普賢菩薩がそれぞれに象と獅子に乗って現れる。かなりの距離があるが大きくてはっきりしている。お釈迦様はいらっしゃらないのかと思って見れば、大きな立像で眼前に在した。二度目は下山される前夜のことである。「自分は或る広野に出ると狼のような猛獣に追われどうして逃げようかとしていると、不思議に飛翔自在となり、直ちに空中高く舞い上がった。すると彼方に経蔵のような建物が見え、虫干しをしているようにたくさんの経典が干してあるのを見て羨望に堪えず、平素から僧侶として一切経は是非読みたいと思っていたものであるからいま幸いにここに来たことは仏様の御手引きにちがいないと歓喜した時に夢がさめた。」と述べられている。その後幾日かして埼玉県の宗円寺にて東漸寺より一切経を取り寄せ2年半で読了された。(これは異例の速さだと言われている。)
弁栄聖者が非常に身近に、しかも果てしなく遠い存在と感じたことでした。
茶話会
ご法話の後、庫裡に下がりますと奥様と世話係りの方がお茶とお菓子を準備して下さいました。お上人様は一幅の掛け軸を持ってきて床の間にお掛けになりました。
それは先程のご法話にあった「山上の御霊夢」の獅子に乗った普賢菩薩を描いたものでした。聖者直筆によるその絵を一見して圧倒される思いでした。まず力強く描かれた獅子の姿に思わず目を見張りました。さらにその色調の美しさに惹かれました。普賢菩薩の目は見る人の心を捉えて放しません。夢で見られた情景をそのまま描かれたであろうその絵は、どんな画家も及ばない素晴らしいものでした。改めて聖者の偉大さを感じさせられました。とても満たされた気分で帰途に着きました。