光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成20年9月

光明園7月例会報告

 

植西 武子

一行三昧の会

7月10日(金) 10時~16時。導師は金田昭教上人、参加者8名。
今月は参加者がやや増え、それだけに活気が感じられました。いつも金田上人が早くに来て会場準備をして下さっています。申し訳ないと思いつつ、遠距離参加を理由に甘えてしまっています。金田上人お声量豊かな称名念仏にリードされ、皆一心にお念仏ができました。隣近所に気がねなく、思い切りお念仏ができる貴重な機会です。今後だんだんと参加者が増えることを期待しています。この後、関東支部の機関誌「歓喜光」の編集会議が予定されていましたので、いつもより少し早めに終わりました。

念仏と法話の会

7月20日(日) 10時~16時。導師は河波定昌上人、参加者は40余名。
11時すぎに光明園に着きました。玄関に入ると下足棚はほぼ満杯で、2階から聞こえて来るお念仏の声もいつもよりボリュームあるように感じられました。道場はほぼ満席で、熱気あるお念仏の最中でした。先月初めて来られた方のお顔もあり、続けて参加されそうで安堵しました。

お念仏の後、聖歌「如来讃」を歌いました。伴奏は仏教塾の今期生の一人である谷慈義氏でした。谷先生は明治大学で教鞭をとっておられ(経営学)、仏教勉強会ではリーダーとしてご活躍下さっています。いつも河波上人自らが伴奏までして下さっているので、急遽オルガンの練習をされたそうです。その熱意と実践力に感服するばかりです。それに応sるべく全員で大きな声で歌いました。その後でご法話を拝聴しました。

今月のご法話の内容は河波上人がまとめて下さいました。

ご法話

東京は7月がお盆です。(地方は8月で帰省ラッシュになります)ところがお盆(施餓鬼供養も同様ですが)には普通「唯心偈」が唱えられます。(浄土宗では呉音で、臨済宗では漢音で)。この偈文は「華厳経」の中に出てくる文ですが、その内容は、

若人欲了知 三世一切仏
応観法界性 一切唯心造

即ち、「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば、まさに法界の性、一切唯だ心の造ところと観ずべし」を3回唱えます。
例えば、夢の中で恐ろしい悪魔等に襲われ恐怖の中にあっても、それが夢だと気づくことによってその恐怖から解放されてゆくのにも似ています。悪魔といってもそれは夢を見ている人間の造作に他なりません。実に地獄の恐怖も「唯心造」なのです。それ故に昔からこの偈文は「破地獄の偈」と呼ばれてきました。
ところで「華厳経」は一貫して念仏三昧を説く経典なのですが、大切なことはこの念仏三昧の中から「三界唯心」が説かれるのであります。「唯心」と言っても西洋人が主張するいわゆる唯心論ではなく、唯心縁起と言って念仏三昧の中から開かれてゆくのです。即ち念仏する時、「仏を離れて別に心あることなく、心を離れて別に仏あることなし」(禅四祖道信の言葉)とも言われるように「仏を離れて別に心あることなし」(念仏三昧の世界)と即応して「心を離れて佛あることなし」(唯心の世界)が開かれてゆくのであります。そして唯心の方向に禅等が展開されてゆくのですが、それとても念仏三昧を離れては成立し得ません。
それ故、禅等における唯心の実践も本来は念仏三昧の実践に他なりません。そして念々に仏を念じ仏を縁ずることにおいて私の心は清浄化されてゆくのです。
それ故に「心浄きに随って仏土浄し」(維摩経)、すなわち「私の心が浄いから仏土も浄い」ともいえますが、また「仏あるいは浄土を念じ、それを縁とすることによってかえって私たちの心が浄められてゆく」ということも成立するのです。法然上人の「浄土の心をかくればすなわち心浄の法にて候」という法語もあります。仏(仏土)と私たちの心とは縁起の関係で成立しています。
「華厳経」は念仏三昧と唯心の二つの支柱で成立していますが、それとても一つの事柄に他なりません。
この道場(光明園)の壁に掛かる弁栄上人の額「洗心甘露水」(善導大師の偈)は浄土の荘厳たる甘露水に触れて私たちの心が浄められ洗われてゆく旨を述べられているものです。お盆は施餓鬼供養でありますが、また何よりも私たち一人ひとりの心の解放、そして心の浄化の行となるものでもあります。

茶話会

8月は例会がお休みとなり、9月は千葉の大厳寺様のお別時に合流ということで、しばらくは光明園での会がありません。そのこともあってか、今月は参加者が多く、とても盛会でした。とくに仏教塾の方々が非常に熱心で団結して事に当たられます。

毎回、例会の後も自主的に残ってみんなで研修や修行をされています。遠方神戸より夜行バスで通っておられる方もあります。河波上人の助言もあって、唐沢山別時にはほぼ全員の10余名が参加されりようです。女性3名は将来尼僧なることを目指しておられるとお聞きしました。新しい方、若い方が増え、光明会に新風を吹き込んで下さることを願っています。

仏教塾の方達との交流が深まるようにと先月から茶話会での交流を図っています。まず、物理的な隔たりを無くすため、別室になっていた茶話会を一つにし、お話しやすい環境にしました。皆さん非常に陽気でユーモアたっぷりの会話に思わず引き込まれてしまいます。仏典の研究もよくされているようで、教えられる所、多々あります。お互いに切磋琢磨し、「法の友」として励んで行きたいと思います。

東京光明会7月例会報告

植西 武子

7月23日(木) 13時~16時 一行院で。
導師は八木季生上人、参加者12名。

今月の例会はウィークデーであったため都合のつかない方が多く、いつもより少人数となりました。お上人様に急用ができて、2時過ぎにお帰りになりました。その間お念仏に専心しました。お念仏の後、聖歌「念仏三昧」を歌いました。このメロディには独特の情感があり、さらに今月13日に筑波山の聖者ゆかりの地を訪ねたばかりでしたので、歌詞に思いを込めて歌いました。
ご法話はいつもより30分遅れて始まりました。

ご法話

今月は「弁栄上人の片影No.195~No.199までについてお話し下さいました。とくにNo.195「本願力」は内容的に深く、難しいので、そこにかなりウエイトを置いてお話し下さいました。

※「本願力」(No.195)
上人曰く、「本願の意は大ミオヤが一切の子らに対する願望である。世間一般でも親の子供に対する望みは、子供を親自身と同じ位置に至らしめんとすることである。大ミオヤも同じく、一切衆生を作仏(仏様の姿を拝む)せしめて、円満至善ならしめることである。力とは如来の一大勢力、一切の子らを解脱霊化せしめて円満に養う力である。この力(本願力のこと)は法界(五感、即ち目-色、耳-音、鼻-香、口-味、肌-触の次の六番目の意の対象の世界のことである)に周遍す。この力は太陽が光線、熱線、化学線の三線でもって地上の万物を育てるが如く、智恵と慈悲と霊化の三能をもって衆生界の心霊を開悟、与薬、霊化する働きがあるのである。
如来の一大能力が万物に及ぼす働きに二面がある。一つは万物を発見し、養育する力であり、二つは天則秩序の下に一切万物を進化させ人類の精神となった時は、心霊を開発解脱して霊界、即ち涅槃に摂取する霊力がある。大霊は右の手で蒔いた種を左の手で摂取されるのである。天則秩序の中に因果の法則となって万物を能生能養する目的は高等な霊的生命として永遠に帰趣させることである。この目的が即ち「本願」である。その本願を示すために(経典の中で)法蔵比丘と顕れ十劫正覚と現じ、また三世諸仏となって世に出現した。帰するところは大霊の目的である本願力の出現に他ならない」
上人また曰く、「如来の本願力は常恒に十方に遍在する。然るに衆生は如何にしてこの霊的光明に摂取されるべきか?
この衆生心が如来の本願力に契合して摂取同化する。これこそ大ミオヤが法蔵菩薩と示現して四十八願の中で示した(十方衆生至心信楽欲生)の三心のことである。
信・・・知力
三心 至心  楽・・・感情
欲・・・意志
この三心が如来の大霊力と目的の霊力と契合する心能である」
(八木上人の解説)・本願の定義
本願とは「仏、菩薩の因位(修行中の意)における誓願」である。
この誓願に四つあり・・・
①衆生無辺誓願度(度=渡すと同じ 彼岸の世界に渡すこと)
②煩悩無辺誓願断(限りなき煩悩を断つことを願う)
③法問無尽誓願知(尽きることがない仏教の教えを知ることを願う)
④無上菩提誓願証(涅槃の境涯に至ることを願う)
以上の四つは仏教を信じる衆生に課せられた共通願である。
「本願」に対して「別願」がある。「本願」は一切衆生の共通の願で四弘誓願という。
「別願」はその人個有のものである。一切衆生が彼岸に渡り切るまで身分はここに残るという地蔵菩薩の願はその例である。
・「本願力」の「力」とは如来様から与えられる一切のエネルギーのことである。如来様の一大能力でもって万物に影響を与えるには二つの方法がある。自然界の未発達のものを進化させ、自然界のものを霊界に摂取する力がある。霊化は自然界の進化の中にも見られるが、如来のお力によってよりはやく達成することができるのである。
・「三心」
・・・(礼拝儀1ページ参照)、経典の中の「至心信楽欲生我国 乃至十念若不生者不取正覚」からの引用。
※「念仏三昧の急務」(No.196)
聖者よりの手紙に「何はともあれ、念仏三昧の修行が急務である。無常の日々は光陰矢のごとし。もし一日を無駄に過ごせばその日は二度と帰らない。念仏三昧とは口に仏を称え、心でもっぱら仏を念じて弥陀を忘れないことである。弥陀は常に衆生の前に在すが、心眼が開けてないのでお会いすることは出来ない。二十三、四歳の頃、念仏三昧に専心した。如何に忙しくても、心は決して弥陀から離れなかった。道を歩いていても道のあることを気づかず、人に会っても人に気づかず、どこに行っても心眼の前に仏様のみ在した。そんな中でも時々妄想が現れ、格闘する時もあったが、やがてそれも苦とならなくなった。何と言っても相当な精神の修行が求められる。過去の大宗教家たちも身体の苦悩より、精神面での苦悩が深かったと言われている。何としても一心に専ら念仏三昧によって活ける真門に入るべし。これが一大事の務めである」
(八木上人はこの境地を詠んだ徳本上人の歌を紹介された)

身は娑婆に 心はいつも極楽に
南無阿弥陀仏と称えおる人

茶話会

ご法話が終わって庫裡に下がってきますと既に4時を回っておりました。八木上人はお忙しい中を例会の日と時間をやりくりして下さいました。ご法話も時間をかけて内容の濃いお話をして下さいました。感謝の極みです。

スケジュールが30分ほどずれましたが、茶菓を頂きながら歓談しました。しばらくお姿を見なかった河村昌一氏がご子息と参加されておりました。白い横縞のTシャツを着て、背筋をぴんと伸ばしたお姿は百歳を超えた方とはとても見えません。元気良く皆さんと会話されておりました。自分自身も命ある限り、かくありたいと願うばかりです。90歳を超えられた中野浩子さんもここ2~3年前からお見えにならなくなりましたが、いつもご自宅で例会に参加されているとご子息からお聞きしました。そしてご子息が毎回の例会にお菓子をを届けて下さっていると、一行院の奥様からお聞きしました。お体の調子が悪い中でそのような心配りはなかなかできるものではありません。一行院で見習うねき多くの先輩諸氏に出会えたことは何よりの宝だと思います。徳本上人と弁栄上人がとても身近に感じられた例会でした。

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