光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成21年8月

一行三昧の会

志村 稔

◇日時 6月6日(土) 10時~16時
◇導師 金田昭教上人
◇参加者 20名

今回もお念仏と法話の充実した一日でした。金田上人の法話は信(信じるということ)についてでした。仏教の教えを信じていくためのアプローチには、①苦難にあう ②教えにあう ③導く人にあう ④念仏の実践 といった四つのご縁が重なっていくことにあります。

弁栄聖者の「御慈悲のたより上中下巻」(中巻は新字体に直したものを河波先生が出されていますので是非お読み下さい)では、病気や将来の不安などの相談に答えられていますが、多くの人々は苦難を通して信仰の出発点になっているといえます。例えば大切な家族や雄心の死は大きな苦難です。
僧侶としてお葬式や法要にかかわるとき、この大きな苦難で直面した人びとのために如来様を信じお念仏があることを痛感いたします。現代日本の仏教は葬式仏教と揶揄されますが、お葬式は苦しむ人びとに如来様やお念仏を伝えるチャンスであります。また現在は年間3万人をこえる自死(自殺)者がいますが、ご遺族にいかに寄り添い、力付けることが出来るかについても考えていきたいと思います。

光明主義の信徒は、これらの「きっかけとなる苦難」から「信仰を通しての苦難」について気付くことも大切であり、お念仏を唱えることにより光明の光に照らされ自分の愚かさに気付くこと(愚者の自覚)が求められます。古歌にも「わがこころ かがみにうつるものならば さぞやすがた みにくかるらん」と歌われたものがあります。

弁栄聖者は、如来様に対するおつきあいの仕方について「欣慕(ごんも)」と「畏敬(いけい)」を説いています。欣慕はねがい・おしたいすることであり、畏敬はおそれ・うやまうことですが、ややもすると欣慕ばかりが強調されがちですが、一見矛盾するような二つの心で如来様とおつきあいすることが実は大切であると説いて下さいました。

(浄土宗新聞7月号に金田上人が寄稿されているそうです。是非ご参照下さい)

念仏と法話の会

植西 武子

◇6月21日(日) 10時~16時
◇講師 河波定昌上人
◇参加者 26名

この日は梅雨前線が関東地方をすっぽり覆い、激しい雨に打たれながら正午前に光明園に着きました。参加記帳のノートにはいつもの半分位しか名前が記されていませんでした。やはりこの雨が出足を鈍らせたようでした。

午前に一席ご法話がありました。講師は関東支部役員で教務を担当されている佐々木有一氏でした。氏は光明会に入会されて年月はそう長くありませんが、既に仏教に関してかなりの研鑽を深めておられ、その熱心な取り組みに感心しておりました。今回、詳しい資料を準備して「回向」についてお話しされました。大変分かり易く好評でした。

午後は小一時間のお念仏の後、いつものようにご法話、聖歌、茶話会の順に進行しました。聖歌は河波上人の伴奏で『七覚支』を歌いました。「歌詞の内容を吟味しながら歌うように」とのご指示に従って、みんなで心を込めて歌いました。その心のハーモニーは歌のハーモニーとなって道場を包みました。その雰囲気の中でご法話を拝聴しました。内容は上人様がおまとめ下さいました。

ご法話

念仏における主体性の問題

近代日本の歌人、斉藤茂吉に『赤光』という歌集があります。この「赤光」の由来は『阿弥陀経』の中にある文です。茂吉はどこかで『阿弥陀経』に連なるところがあったようです。

経文には「(極楽国の)池中の蓮華の大きさ車輪の如し、青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光、微妙香潔なり。舎利仏よ、極楽国土はかくの如きの功徳荘厳を成就せり」。青色の蓮華はその色(本性)に止まらず、青光となって光り輝く様を語っています。水棲植物である蓮華にとっては池の中でその本性を発揮して限りなく美しく輝きます。そしてそれは決して青だけという一面性に止まるのではなく、その各々の本来に還って青は青、赤は赤と光輝くのであります。

蓮の花は比喩で「青色青光」等も極楽世界では私たち一人ひとりが各々に自らの本来に還って微妙香潔に光輝くのであります。その各々自身に還ることを哲学的には「主体性」と言います。

ヨーロッパにおいてこの主体概念の初出は前上首・山本空外上人によると、プロティノス(203~269、インドでは竜樹菩薩とほぼ同時代)であると述べられています。上人の博士論文はプロティノスでした。例えばプロティノスの著作『エンエアデス(九集)』の第六巻九章には繰り返し「そこ(絶対的な一者)で私は私自身になる」ことに言及しています。この「私が私になること」が私たちにとって最も重要なことで、日常においては私たちはそのような真実の自己から疎外されて自己を失った状態にあるのですが、ちょうど蓮が池の中で自らの本来性を開花せしめるように、お浄土とはまさにそこで私たち自身が自己自身に還り、本来の自己を展開するのであります。その青色青光のところを田中木叉上人は小菊に喩えて、

白は白 黄は黄のままに野の小菊
とりかえられぬ尊さを咲く

と詠じられています。自己疎外から自己自身を取り戻すことは初期のマルクスにおいても最大の課題となるものでした。しかしながらかかるマルクス主義さえも本来の自己を喪失してゆきました。むしろ何にもまして念仏の実践においてこそこの真実の自己に目覚め、それに還り、それを展開してゆくことになるのであります。

浄土教をただ「捨此往彼 蓮華化生」(源信『往生要集』の言葉)としてのみ理解するのでなく、更に一歩進めてかかる往生の営みにおいて「根源的主体性」の展開がなされ、そこに弁栄聖者の新しい創造性が見られます。

弁栄聖者の光明主義は最初から主体性の問題が中心テーマでした。従来は禅宗における「直指人心 見性成仏」こそが眼目であり、そしてそのような立場から浄土宗を批判したりもしていましたが、決してそうではなく、むしろ念仏の実践こそがそうで人間の根源的主体性の展開があることを教示されたのが弁栄聖者でした。たとえば弁栄聖者のご道詠の

我というは 絶対無限の大我なる
無量光寿の 如来なりけり (欲生我国)

は、私たちが阿弥陀仏と一体化したところで私たち自身の根本的主体性の展開が語られているのであります。

十万の 億と説きしも誠には
限りも知れぬ 心なりけり

も浄土に念いを馳せながら、その十万億の果てにまで限りなき根本的自己(心)の露わになってゆくところが歌われているのであります。
また、田中木叉上人のお歌の中にも、たとえば

すき透り 尽十万はただ光
これぞ我かも これ心かも

の歌等にもそれを見ることができます。
根源的主体性の展開はこのように真の浄土宗の眼目であり、そして従来の浄土宗の説相をも突き破って光明主義の実践の眼目となるものなのであります。

茶話会

いつもよりやや参加者は少なかったですが、帰路を急ぐ人もなく、とても落ち着いた雰囲気の中で会話が弾み、皆さん賑やかに楽しげに歓談されていました。その光景を見ながら、お念仏の会所にはこのような雰囲気が何より大切だと思いました。河波上人様も誰にでも優しく接して下さると、とても喜んでkられる方がありました。

今月は新しく3名の方が参加されていました。奥様の教え子である女性の方が娘さんを伴って参加されました。また、東京の男性はインターネットで光明園のことを知り参加されました。本部で作成されているホームページがご縁を結んでくれました。また、ある一人のご婦人とお話する中で、光明園に来るきっかけは京都の仏教大学で岩崎念唯上人と出会い、紹介されたとのことでした。この様に小さなきっかけが仏様とのご縁を結び、大きな結果をもたらします。一人ひとりが心掛けて法の輪を広げていきたいものです。

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