真新しい「真如堂」を訪ねて
植西武子
◇日時:平成23年2月12日(土)
◇会場:西所沢「真如堂」
◇参加者:関東支部より8名
この日は関東地方全域のみならず、中部、北陸、東北地方に至るまで大雪注意報が出ており、交通機関に影響がでるかと心配するような天候でした。待ち合わせ時刻の11時に西所沢駅に無事到着して、全員そろって安堵しました。駅から「真如堂」まで佐倉氏が車で二往復して下さいました。
「真如堂」は佐倉氏が念仏道場を主眼として建てられました。極最近に完成した山小屋風の素敵な別荘と言った感じの建物でした。駅から車で10数分、町中を走って間もなく、大きな林の入口にそれは建っていました。前日から降った雪で辺り一面は銀世界、林の木々は落葉樹で雪に覆われたその枝々は独特の造形美を醸し出していました。ファンタジックな世界にしばし佇んでいました。
白一色の中に建つ、三角屋根の黄色い館はまさにお伽の国のようでもありました。そう言えばここは「トトロの森」に続いていると聞きました。
案内されて中に入りますと、大きなテーブルが中央に、頭上を見上げると、吹き抜けの天井からシャンデリアが温かく迎えてくれました。佐倉氏のご趣味とかで家具はすべてアンティークで統一され、とても素晴らしい雰囲気でした。
全員でテーブルを囲んで、奥様がご準備下さった昼食をみんなで頂きました。奥様の友達と言う方がお手伝いして下さいました。とても美味だと評判のパンを頂きながら歓談しました。自己紹介をしたり、個々に楽しいひとときを過ごしました。
食事の後、全員で林と言うより森と言うほうがふさわしい所を案内されて散策しました。道はきれいに整備されていましたが、落ち葉が雪解けの水でしめり、ややぬかるんでいました。あたりは落葉した木々が静かに佇み、静寂の世界でした。奥に二つの神社があるとのことで、そこを目的地として歩きました。佐倉さんの小学生の二人のお子さんも加わって、二人で雪合戦に興じながらの散策でした。二カ所の古い神社にお詣りをして、当時を生きた人々に思いを馳せ、懐かしいような気持ちになりました。その土地の持つ霊性に触れたようなひとときでした。
散策の後、二階の道場で全員そろって約1時間お念仏をしました。二階の道場は建物の半分が吹き抜けになっている関係上、こぢんまりとしていました。一緒に参加した炭屋氏が導師をして下さいました。落ち着いた環境の中でみんなでお念仏に専心しました。
お念仏の後、再び階下のテーブルを囲んで茶菓を頂きながら楽しいひとときを過ごしました。4時前まで歓談し帰路に着きました。帰途の車中や帰宅後も、何とも言えないほのぼのとした気分でした。まさに充実した一日でした。佐倉ご夫妻とお手伝い下さった鈴木様に感謝の気持ちで一杯でした。
今回の訪問の目的はお念仏道場として、使わせて頂けるとのことで、お伺いしました。今後、どのようにするか田代支部長と佐倉氏と相談しながら進めて行くことになっています。奥様とのお話の中では若い女性の方の集いもご希望のようでした。この素敵な自然的環境の中で子供連れでのお念仏会ができれば素晴らしいことです。
金田隆栄理事長が婦人部の創設を提唱されている折から、関東支部でもそれの応じるべく計画しています。「真如堂」がその一つの場として、「女性のお念仏の会」が誕生し、発展することをひたすら願うばかりです。
念仏と法話の会
植西武子
◇日時:平成23年2月27日(日)
◇会場:光明園
◇導師:河波定昌上首
◇参加者:30名
2月とは思われない暖かい陽光のふり注ぐお天気に恵まれた日でした。あちこちで梅が急に開花を始めました。午前中は十数名でしたが、午後から急に参加者が増えてきました。
「清浄光」を歌ってからご法話を拝聴しました。
ご法話
今月はお念仏をしていると、不思議な力が加わって、心が浄化されていくことをいろんな事例を示しながらお話下さいました。
この変化していくことをキリスト教ではエネルゲイアと表現している。仏教では難思議と表したり、感応道交ともいう。
この感応道交は自然の中にも、心の中にも働いているのである。弁栄聖者は自然界、心霊界とそれぞれに分けて感応道交を説明されている(『無辺光』)。
河波上首は自然界の感応道交の例として、よく引用される麦と雲雀(ひばり)の関係を揚げられました。米国のミネソタ大学の教授、D・カールソンによると雲雀の鳴き声と麦の生育には深い関係があると言う。雲雀の鳴き声(音)によって麦が一段と生育する。(心霊界の感応道交の例として)念仏をしていると、信じようが信じなくても感応道交が起こってくる。「能礼所礼性空寂」である。
感応道交には①冥機冥応(気が付かない内に働いている)、②冥機顕応、③顕機顕応、④顕機冥応の四種類がある(中国・天台大師のことば)。
中国に真言密教を伝えた唐代の僧、不空三蔵は『舎利礼文』(浄土宗で墓前等で称える経)の中で入我我入(真言では加持と言う)を説いている。
弁栄聖者はこの心の変革を「清浄」「歓喜」「智慧」「不断」の四段階で示された。一声一声の念仏の中で心は清浄化され、人格が変革していくのである。
「清らかさ」は神道でも重要視しているものである。特にみそぎとして身を清めたり、邪気を払うことが重んじられている。仏教では清らかさだけでなく、その中に「空」の体験をして、無我になっていくのである。そして人格的に救われて行くということが何よりも重要なことである。
これはキリスト教についても同様である。「フランス的霊性」なる表現や、ドイツのマイスター・エックハルト著の「高貴なる人間」にもそれが伺われる。
人間の高貴性に関して、弁栄聖者は清光光として表現された。人間が変革していくその過程の中に清浄光が現れる。清浄光は感覚の救済である。
「和をもって貴しとなす」で始まる17條の憲法にその建国の理念を持つ聖徳太子には仏教の哲学があった。特に『維摩経』をその拠としていた。
維摩はサンスクリット語でVimalaと言い、Viは「離」を、malaは「煩悩」を表し、「清浄化された主体」を意味する。『維摩経』には次の四点の思想が説かれている。
①は、心清きに随って浄土浄し」である。これは『維摩経』の最も大切な点である。
②は「維摩の方丈」である。「方丈」は空なる空間を意味し、大宇宙と小宇宙を包含し、「空」は無限の感覚である。
③は「平等」の思想である。「観衆生品」では、空になったところで男性、女性の区別が無くなっていく。平等とは何か?それは「無性の故」である。(『華厳経』)
④は「入不二法門」の思想である。「不二」は空のことで善も悪も無くなっていくのである。何が良くて何が悪いかと言う二元論で済むものではないのである。
集中と解放の関係も同じ思想に基づくものである。沢庵和尚は集中には「恭敬修」が必要と説いた。恭敬→集中→解放の循環が望ましい。
西田幾多郎はこの二元論では解決できないことを「絶対矛盾的自己同一」と表し、ニコラウス・クザーヌスは「反対の一致」(Coincidentiaoppositorum)と言っている。
聖徳太子は『維摩経』のみならず、『勝鬘経』『法華経』を心の拠とされていた。一つの経典に偏することなくそれぞれの適所を取り入れていくことが大切である。
茶話会
今月は子供が3名と新しく2名の方が参加されました。子供は幼稚園児の美沙ちゃんと先月も参加された佐倉さんの小学生の男児2名でした。3人共、長いお念仏にも耐えて頑張っていました。
新しい方の一人はインターネットで情報を得て参加されました。念仏道場を求めて「浄土宗」で検索されたそうでした。続けて参加されることを願っています。もう一人は最近参加されるようになった方のお姉さんで富山県から訪問中とのことでした。姉妹そろって熱心にお念仏されていました。とてもうれしいことでした。なごやかに歓談が始まり、いろいろお話をしたかったのですが3時から階下で光明園の役員会があり中座しました。とても残念でした。新しい方、若い方が一人でも二人でも増えていくことを願いました。
一行三昧の会
佐藤蓮洋
◇日時:平成23年2月6日(日)午前10時~午後4時
◇会場:光明園
◇導師:藤本清孝師
◇参加者:13名
光明園の庭にも紅白の梅の花が咲き、寒さの中にも春の訪れを感じさせるお念仏会になりました。
午前中はお念仏、如来光明礼拝儀を称え、聖歌を唱い、午後は、お念仏と藤本氏のお話がありました。藤本氏からは「いろいろな宗教があるけれど、本物を見分けることが大切である。本物の宗教は、究極的にはみな共通した教えがあり。それを体得した人がいる。」ということで、ブッダ、弁栄聖者、ソクラテス、スウェーデンボルグ、ラーマクリッシュナー等の言節が紹介されました。普遍宗教という視点からのお話であり、お念仏後の茶話会でも活発な意見交換がされました。