2月 関東支部報告
一行三昧の会
佐藤 蓮洋
◇日 時:2月1日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:7名
?二日前は東京に雪が積もりましたが、お念仏会は快晴で光明園の庭の紅梅が空に映えました。
炭屋師の維那・大木魚で始まり、午前中はお念仏、礼拝儀を称え、午後はお念仏と河波上首からご法話をいただきました。
ご法話の内容
大乗仏教では禅と念仏が異なるものであるといわれていますが、弁栄聖者によって禅と念仏は一緒であると教えていただきました。例えば、禅宗の「臨済の四料簡」は禅の修行の四つの局面(アスペクト)を示すものですが、人(心)と仏の四つの関係でもあります。この心と仏の関係はまさに念仏に通じ、臨済を学べば学ぶほど、お念仏のありがたさがわかってきます。四料簡とは念仏のことなのです。
- (1)奪人不奪境(私がなくなって、対象だけになる)
- 月をみて月に心のすむときは月こそおのがすがたなるらめ(弁栄聖者)
- (2)奪境不奪人(対象がなくなって、私のみ(唯心))
- 十万の億と説きしもまことにはかぎりもしれぬ心なりけり(弁栄聖者)
すきとおり尽十方はただ光これぞ我かもこれ心かも(木叉上人) - (3)人境倶奪(私も仏もなくなる)
- 「心を離れて別に仏あることなし。仏を離れて別に心あることなし。」(『楞伽師資記』)。念仏三昧によって空の世界が開けてくる。心と仏が縁起しているのであり、両方で一つ。
- (4)人境不具奪(私の心は私の心。仏は仏。)
- 高い次元の「色」の世界
?念仏と法話の会
佐藤 蓮洋
◇日 時:2月22日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:25名
光明園の庭には蕗のとうが芽を出し、春の確かな足取りを感じさせています。
光明園のホームページを見て、初めて参加された方も熱心に礼拝儀を唱え、聖歌を一緒に詠いました。午後には河波上首よりご法話がありました。茶話会では新しい方の自己紹介がありお話が盛り上がりましたが、光明園の役員会開催のためにいつもより早く解散となりました。
ご法話の内容
この光明園は田中木叉上人が最初の園主である念仏の専門道場です。法然上人、弁栄聖者の教えに従い、大乗仏教の原点にそったお念仏の実践をしています。釈迦も出生の因縁として法華経では、「私たちがみなもっている仏の知恵(仏智見)をお釈迦様が開き、示して、そして私たちに悟らして、仏の世界に入らせる」と説かれています。法然上人は古代から中世の転換点で現われ、阿弥陀様と直接触れ合う「三昧発得記」をお残しになりました。では江戸末期の中世から近代の転換期に現われた弁栄聖者の出生の因縁は何であったのでしょうか。
大乗仏教はインド仏教とギリシャ文化が出会って生まれました。インドの「空」はギリシャの「形相主義」と出会い、姿・形をもつようになりました。ですから「空即是色」とは、より高い次元の形相主義がお浄土の世界として顕われでたことを示しているわけです。弁栄聖者も念仏七覚支の中で「阿弥陀(みおや)の身色紫金にて……」と般舟三昧経の内容をそのまま聖歌にされていますが、これは阿弥陀様と直結することをお説きになり大乗仏教の原点をお示しになっているわけです。その点、無量寿経では「去来現仏仏々想念」「諸根悦予 姿色清浄 光顔巍巍(五感すべてが喜び、お顔が光輝いている)」と説かれ、お釈迦様も如来様と出会って光輝いていく。これは私たち一人ひとりがお釈迦様となっていくということでもあるのです。そして、このことは礼拝儀の「我等も完徳の鑑たる世尊に倣いて如何なる境遇にも姿色を換えざることを誓い奉る」ということばに現われているわけです。キリストも弟子たちと山に登られたとき、神と出会って光輝いたといわれています。このようにラディカル(根底的)なものに触れると変化が起きるのです。
歴史家のアーノルド・トインビーは二十世紀最大の出来事は仏教とキリスト教が出会ったことであると云いました。弁栄聖者は大乗仏教とキリスト教の出会いから光明主義をお説きになり、礼拝儀全部がキリスト教といっても過言ではありません。弁栄聖者はキリスト教を全面的に受容し、光明主義に包含したわけです。弁栄聖者の教えはまさに二十一世紀の宗教的世界を切り開くことになり、それこそが弁栄聖者の出生の意味といえるのです。