5月 関東支部報告
一行三昧の会
佐藤 蓮洋
◇日 時:5月3日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:12名
連休の合間のお念仏会でした。岩崎氏の大木魚で始まり、午前中はお念仏、礼拝儀を唱え、午後はお念仏と河波上首よりご法話をいただきました。
ご法話
弁栄聖者には、「私たちは念仏三昧できるように生まれてきたのに、なぜ三昧ができないと絶望してしまうのか」、というお言葉が残っています。つまり、人間に生まれてきたのだから、三昧の実践ができるんだ、ということですね。しかし、一方、現在は三昧は善導大師、法然上人のような立派なお方でなければできないといことを強調する。これでは念仏三昧の貴族主義といってもよいですね。
念仏三昧には二つの段階が考えられます。まず第一段階は、『観無量寿経』に書かれている上品から下品の中で、最下位のランクである下品下生ですらお念仏によって「八十億劫の生死の罪が除かれる」ということです。ありがたいですよね。第二段階は、「高貴な人間になる」ということです。これは十四世紀のマイスターエックハルトが「深い祈りの中で、神から高貴性がながれでる」と言われていることと同じことです。弁栄聖者は「お念仏をしていると凡夫も高貴性がでてくる」とおっしゃられています。そして、「阿弥陀佛と尊きかたをおもほへば おもふ心ぞいやたふとけれ」と信仰の極意を歌で表しています。阿弥陀仏への一念一念によって、阿弥陀仏の徳をいただくことができ、私たちの心は無限に深まっていくわけです。
また、弁栄聖者は七覚支を大切にされていました。この七覚支は小乗仏教の教えでもありますが、それを大乗仏教の立場に止揚され、聖者はお念仏の中で七覚支の深まりがあり、我々は救われていくとおっしゃった。お念仏の中で、凡夫ではあっても、私たち一人ひとりが尊厳性に気づき、そしてその尊厳性を開いていくことができるのです。
お念仏の時間をいただいてお話をさせていただきました。本日のお話がお念仏を深めるお役にたてばと思います。これから少しお念仏をしましょう。
?念仏と法話の会
山本 サチ子
◇日 時:5月24日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:30名
念仏七覚支を岩下玲子さんのピアノ伴奏で5番まで歌い法話はすすめられました。
ご法話の内容
- ●舎利礼文と一枚起請文
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法話は「舎利礼文と法然上人の月影の歌」を中心に念仏の重要性に重点をおいてお話が進められたと受け止めています。
光明園は念仏三昧の実践道場です。念仏三昧の専修道場は全国で光明園のみです。嘗ては各地にも念仏三昧の道場がありました。しかし現在ではここだけとなりました。さて、舎利礼文ですが舎利礼文は主に真言宗で称えられております。この経典は実は真言宗にとっての一枚起請文なのです。この二つは相異しているようでありますが実は根本は一つなのです。かつて早稲田大学で舎利礼文を勉強されていた真言宗の「川原栄峰」さんはドイツの哲学者マルテン・ハイデッガー(1889~1976)から手紙を頂きドイツにハイデッガーの講義を聴きにいったことがあります。この方もまた舎利礼文が真言宗にとっての一枚起請文であると言われています。
念仏の行水月を感じて昇降を得たり(選択集第16章)。
○水が月を感じて昇 月が水を感じて降
○月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ古代中央アジア国大月氏国という国がありました。お月さまを主とする国であります。この国で大乗仏教は大いに興隆しました。お歌は真言密教でいうこととまったく同じです。そこには浄土も・真言もない。そこにはただ一つの真実があるだけです。法然上人は宗教体験を歌に顕わして説かれました。突き詰めていくと不空三蔵の『舎利礼文』は月影のお歌と変わりありません。
○一心頂礼 万徳円満釈迦如来……すなわちミオヤはあらわれん
紀元一世紀頃に般舟三昧経が興りそれが後に日本に伝わり思惟(しゆい)がひろまりましたがthinkingを思惟と訳したことで本来の意味を壊してしまいました。主観と客観が対立している様にみえますがそうではないのです。別の表現で言いますとそれは「入我我入」であり真言で言うなら加持にあたります。そしてお念仏をしているといつのまにか三つの不思議な力が加わってきます(加持)。
- 仏の威神力がはたらく。(高貴性、尊さが人格として顕れる。犯すことのできないものがでてくる)。
- 三昧定力が加わり集中してくる。(阿弥陀様の三昧が私達に加わり実現してくる)
- 人間の中に阿弥陀様の無限の力が加わってくる。(お念仏をしているといつのまにか私の中に仏様が入って下さる。阿弥陀様と一つになります)。
まさに宇宙全体が阿弥陀様であります。人間の生命の誕生には137億年の歴史がかかっています。最近では宇宙物理学からもそのように説かれています。古今東西を通じて七覚支は最高の思想でありますがたとえば択法覚支にもみられるように亡くなった人を想うとき自然にその人を想いますが念仏も同じです。
御親の身色紫金にて
円光徹照したまえる
誕生無比の相好を (御名を通して念ほへよ)
訳した僧は大月氏国の支婁迦讖です。
阿弥陀仏と 心は西に 空蝉の
もぬけ果てたる 声ぞ涼しき - ●結び
-
大乗仏教二千年の歴史の中で仏教さらにキリスト教あるいはギリシャ哲学を含めて人類の精神的遺産とし豊かな展開をとげたのが大乗仏教であります。そういう精神的背景に預って私達は禅と念仏を分けてしまうことは考えられなくなってしまいました。念仏をすると空の世界が開けてきます。法然上人のお歌は念仏と空を説いています。大乗仏教の精神はその全体を挙げてそのまま光明主義の中に流れているのであります。弁栄聖者の教えは教義のための念仏ではなく生きるための教えと実践であります。この光明園は得難い念仏道場であり貴重な場所であるのです。皆様この場所で修行して下さい。
私達はどこか一部分でも念仏を生活の支えにして一人一人の生活の中に教えを頂いて生きていくことが先人の御恩に報いることであります。しっかり念仏を続けることが大切であると思います。…と結ばれました。
茶話会
今日はホームページをみて参加してくださった女性が一人おられました。嬉しいことです。どうか私達と共に歩んでいただけますようにと願います。役員会がある為に茶話会は少し早めに終了となりました。
合掌