一行三昧の会
佐藤 蓮洋
◇日 時:10月4日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:13名
光明園の庭の柿も昨年以上に鈴なりに実をつけ、もう少しで収穫が期待できるようになりました。まだ汗ばむ陽気の一行三昧でしたが、お念仏、ご法話、茶話会はとても落ち着いた雰囲気でした。
ご法話
近代そして現在、宗教は軽んじられています。マルクスは「宗教はアヘンである」と言い、宗教は人間が作ったものだと断言しました。フォイエルバッハは『キリスト教の本質』とういう著作で、神学を人間学に還元してしまい、神を人間の観念が造ったものだと、観念論に落ち込んで、人間が中心であることを主張しました。しかしこれは逆で、神が宇宙のリアリズム(実在論)であり、この実在に出会っていくことの尊さこそが、今、問われなければいけない。釈迦もこの実在に触れて感動していく。それを、玉城康四郎博士は「瞑想するバラモンにダンマ(法)が現れる」という偈文によって明確に示されました。そして、この実在に触れるためには宗教的な実践が必要であり、私たちはお念仏によって、阿弥陀様という実在に出会っていくわけです。真実の実在に触れていく、出会っていくための一つのメソッド(方法)がお念仏ともいえるでしょう。
近代の落とし穴は自己の拡大、人間中心主義であり、神を自分の中に取り込んでしまったことです。しかし、私たちは自分の分別ではとらえられない存在に気づきます。「それは在(ま)します」という経験(リアリティー)であり、自分がいつもこの尊い存在にコンタクトを取っていく、それが念仏生活なのです。阿弥陀様のお名前は、計算されたものを超えている、という意味であり、人間の分別・計算を超えているのです。
キリスト最後の祈りとして知られているゲッセマネの祈りでは、キリストは「アッバー」と父なる神に呼びかけられています。この言葉は「お父ちゃん、パパ」という子供がお父さんに呼びかける、大変親しい表現です。キリストと父なる神は本当に親しい関係なのです。私たちも礼拝儀で「大ミオヤよ」と呼びかける。阿弥陀様と私たちの中はとても近く、親しい関係なのです。
平成27年度(第10回)関東支部教学布教研修会
山本 サチ子
法題
第一日(10月17日土曜日) 近藤伸介氏:(佛教大学研究員)
キリスト教と光明主義(無辺光を中心として)Q&A
加藤智神父(カトリック川越教会)
世親菩薩の『浄土論』:(聖歌「聖きみくにの原点)
河波定昌先生からのコメント
『浄土論』と「聖きみくに」
加藤智神父と河波定昌上首との対談
第二日(10月18日日曜日)
佐藤蓮洋氏『不断光と意志』 Q&A
矢野司空上人「念仏と心」 Q&A
出席者:10月17日(土)29名、 10月18日(日)25名
まとめ
10月17日(土)、18日の両日にわたり、光明園(東京都練馬区)において「第十回光明会関東支部教学布教研修会」が開催されました。河波上首を始め、カトリックの神父、唯識研究の若手講師の近藤伸介氏、関東支部副支部長の佐藤蓮洋氏、矢野司空上人の合計5人の方々にそれぞれの分野から弁栄聖者との関連についてお話をいただきました。
◆近藤伸介氏は無辺光を中心としてキリスト教と光明主義の共通点を挙げながら弥陀とキリストの神は同体異名であり、無辺光の中の「妙観察智」等について説かれ、法話は新鮮で清々しく思われました。初心者も理解しやすいことば巧みな内容であり工夫が感じられました。
◆加藤神父はキリスト教のミサの体験を中心にミサにおけるイエスとの出会いの体験と法然上人・弁栄聖者の三昧発得に共通の繋がりがある事等を説かれました。
◆佐藤蓮洋氏は法身・報身・応身の3点から弁栄聖者の教えを説かれた。卵の中に阿弥陀様がいらっしゃり如来の働きがある。十二光の中の不断光を引用しながら心のありようを説明なされました。心理学まで踏み込んだお話は参加者を引き込みました。
◆矢野司空上人の「念仏と心」の法話はまさに南無阿弥陀仏と行を行ずるところに身を置いていくどこか心におごりがあっては値打ちは下がります。信仰のありかたとして『無二的人間形成』が大切なこと等を説かれました。
◆河波先生は『浄土論』と「聖きみくに」についてコメントなされました。
加藤神父と河波先生との対談
河波上首上人から加藤神父に対して三つの質問が出されました。
- なぜ浄土論をカトリックの神父が読むのか
- 神の国と浄土その相違点について
- 弁栄聖者をどのようにとらえているのか
イギリスで神父をしていた自分が日本に帰国してミサを行うのに戸惑いがあり悩んだ時期がありました。そんな時に藤本浄彦上人からもういちど行に還ったらどうですかとアドバイスを受けました。そして浄土論を学んだのです。浄土論を読むことによりより一層カトリックになっていきました。法然上人の三昧発得の体験を学び少しでも理解したいと思いました。ミサは行であり儀式ではありません。ミサの体験を深めていくため日本人にミサを日本語でロゴス化する場合に浄土宗に学ぶ必要があったのです。私には法然・聖光・弁栄各上人のことばが必要でありました。
宗祖の皮髄を読むと往生論と面々と繋がっていると思われるのです。弁栄上人は私に明らかに教えてくださっていると思われます。もし若い頃に『宗祖の皮髄』を読んでいたら自分は神父になっていなかったのではないかとさえ思われます。