関東支部報告
一行三昧の会
鎌尾 美津江
◇日 時:7月3日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:佐々木有一氏
◇参加者:17名
4月の一行三昧の日に河波上人様がお亡くなりになられました。5月の「法のつどい」における追恩法要、光明園での偲ぶ会。そして2ヶ月ぶりに河波上人のご遺志をついで、大南上人様の御法話が再開されました。この日会の終わりに皆で念仏七覚支を歌いました。
今月より、長らくご法話を纏めて下さった佐藤蓮洋師から、バトンタッチいたします。
- 〈御法話の内容〉
- 今月から佐々木有一氏の一行三昧のご講話が始まります。念仏に溶け込んで生活されていた河波上人は、まさに円具教を体現なされていた、というお話をして下さいました。艶やかなさくらんぼがお供えされていました。会の始まりと終わりにそれぞれ開経偈、四弘誓願をお唱え致しました。
- 〈ご講話〉
- 今日で河波上人が御遷化されて三ヶ月が経ちます。先日「円具教を体現なされた河波上人」という追悼文を書かせて頂きました。これに因んで円具教についてお話し致します。遷化とは教えを説かれる活動を移されることです。どこに移されたのか。浄土三部経でも書かれている中身がちがいます。無量寿経・阿弥陀経では西方十万億土の彼方であり、観無量寿経では、此を去ること遠からず(去此不遠)とあります。この違いをどう受け止めればいいのか。弁栄聖者は独自の教判をしています。教判とは「教相判釈」の略で、さまざまの発展段階の仏教を併せて受け入れることを余儀なくされた中国の仏教者たちが、仏説の優劣等を判定しその意味づけを行ったことです。有名な教判は天台の智顗と華厳の法蔵ですが、お二人とも自分の宗旨を円教(完全・円満な教え)としています。弁栄聖者は光明主義を円具教としています。『大霊の光』を引用して円具教を説明してみたいと思います。弁栄聖者は宗教を自然教、超自然教、円具教と三つの段階に分類されています。自然教とは、神を自然の中に認め現世利益を目的(所求)とする信仰で、本居宣長『古事記伝』や柳田國男『先祖の話』などに見てとれます。超自然教は、神はこの世を超えた彼岸浄土におられるもので、現世の幸福を求めるのではなく、未来(亡くなってから)の上天安楽を目的(所求)とする信仰です。キリスト教やユダヤ教などが典型で、仏教でも浄土宗はこの教えに入ると言えます。人類の歴史は超越を発見し、同じ頃、他者の発見をしました。他者の発見は慈悲の気づきとなり、大乗仏教の菩薩思想へと連なります。円具教は精神主義(精神の変化)、無称光によって聖き心とならせて頂くのです。現在を通して、永遠の生命を求めることを目的(所求)とする信仰です。死んでからではなく、現在からということが大切です。「光を獲る因」という聖者の偈に端的に表明されています。この教えでは宇宙全体が、通じて絶対の大霊であり、これが二面に現れると見るわけです。一面が自然界、他面が心霊界で、この二つが相即し相入し重々無尽に重なっています。そこから観無量寿経の「阿弥陀仏、此を去ること遠からず」の意味が分かってきます。円具教が可能となるのは、縁起の原理の故であり、三昧によって如来と合一し、如来の智慧の啓示を受け霊性が開けます。一切経を読了した弁栄聖者の実証による帰納的教理、つまり聖者がご体験されたことなのです。
念仏と法話の会
鎌尾 美津江
◇日 時:7月17日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇参加者:24名
午前中は念仏と礼拝、午後は4月3日に御遷化された河波上首上人の新盆の法要がありました。大南園主はお盆の外相と内相についてご法話下さいました。柔らかな盆提灯の光を目印にお帰りになられたお上人の御霊にまみえ、ご廻向させて頂きました。
- 〈ご法話〉
- 7月12日に河波上人の納骨式の為、京都の福知山を訪ねました。ちょうど百箇日(卒哭忌【そっこく き 】)の翌日でした。臨済宗の菩提寺、無量寺の住職のお心遣いで、本堂の正面に山本空外上人の「自性清浄」のお軸が掛けてありました。この寺は福知山の市内から少し離れた閑静な山里にありました。法要の後、市内の曹洞宗、正眼寺にある河波家の墓所に上人のご遺骨をお納めしました。河波上人がよく禅の思想をお話し下さったのはご生家が禅宗のお檀家だった事が影響していたのでしょう。禅もお念仏を称えたというのは上人の持論でお念仏の信仰を貫かれました。本日は上人の新盆の法要でお箸を清め、水向けをさせて頂きました。私の住む地方では新盆を迎える仏様のために提灯を高く掲げ、家の中には精霊棚を作ります。迎え団子や送り団子、故人の好きだった物でもてなします。全国各地様々な営み方があり習俗としてのお盆の外相と言えます。お盆の言語の由来は『盂蘭盆経』(竺法護訳)に求められます。玄応の『一切経音義』には「盂蘭盆」は正しくは鳥藍婆?【ウランバナ】と言い、訳して倒懸(逆さ吊りの苦)とあり、あるいはイラン語の死者の「霊魂」を意味するウルバン、最近は「自恣」プラバーラナーの変化語のウラバーナの音写説などがあります。自恣とは、夏安居の最後の日に僧たちが安居中の罪過の有無を問い、反省懺悔し合う作法です。『盂蘭盆経』は神通第一の仏弟子、目連が餓鬼道に堕ちて苦しんでいる亡母を救う親孝行と先祖に対する愛情がテーマになっています。母が餓鬼道に堕ちたのは慳貪(吝嗇)の性が強く人々に与えることをしなかったからです。母を救うため、目連が釈迦に教えを乞うと、十方衆僧と威神力を頼みにせよと諭します。餓鬼や修行が終わった僧への供養など、施しの心の大切さとその実践の必要性を説いているのです。古来、日本人は死者や先祖を迎え供養する信仰を重んじてきた民族です。説話に端を発していますが、インドの死者を迎える信仰と上手く結びついて正月やお盆をつとめることが人間の営みとして現在まで続いています。内相ですが『人生の帰趣』で弁栄聖者は「一心十界」の教えの初めに、『華厳経』の仏昇夜摩天宮自在品の「破地獄偈」を引用されています。この偈はお盆の法要で必ず誦えられます。聖者は偈の意味を三世諸仏は本は一つの法界性より出た一大如来蔵心(大ミオヤ)である。一切の仏と共に十法界は心が造り出したものであると悟れば地獄の苦しみは除かれると、お説き下さっています。因みに十界とは六凡法界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)と四聖法界(聲聞、縁覚、菩薩、仏)です。目連の母は物惜しみの心が強かったばかりに死後、餓鬼道で苦しみました。しかし、聖者は十界のご説明では三悪道(地獄、餓鬼、畜生)はまさしく私達人間の現実の姿であると捉え、実に赤裸々に描いています。その三悪道の心は私たち衆生の心にほかなりません。そして一大如来蔵心と衆生心との関係を如来心の一分心が衆生心であり、両者は不一不異、すなわち一つではないが別々でもない。また如来心の有する万法を衆生も有すると説いています。地獄、餓鬼、畜生の三悪道を支えているのは一大如来蔵心であることに気づかなければなりません。このように人間の本質を学ぶことがお盆の真の意味であることを「一心十界」の説から学びたいと思います。そこに私たちは弁栄聖者による『盂蘭盆経』の非説話化のヒントを見るのです。