光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和6年4月

光明園2月の報告

〈一行三昧会〉

 四日(日)に10名の方が参加され、午前中は、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌は心田田植歌、午後は、聖歌「感謝の歌」、昏暮の礼拝をお称えしました。
 光明園の庭の紅梅も今年も青空に鮮やかに映え、「四時は常を過らず、春は芽生えて夏しげり・・・」と、「感謝の歌」が心に沁みました。

〈念仏と講話の会〉

 蕗の薹とともに春を感じる十八日(日)に参加者11名で開催されました。午前九時から正午までの間、お念仏、晨朝の礼拝、聖歌(「不断光」)、午後は聖歌(「念仏七覚支」)をお称えしました。
 花輪講師から木叉上人の「三昧を得てからのみ、ご利益をいただくのではなく、三昧になろうとの努力そのものの中に大利益がある」というお言葉が紹介され、とても励まされた気がしました。(記:佐藤蓮洋)

講話(2月)

花輪智之

 今回の講話では、前回に引き続き念弥陀三昧(超在一神的汎神の宗教体験)において肝要となる点について深堀する。

1 無意識の奥底から働く大ミオヤ
 自然界に生きる衆生の心層は表層意識である五官(五識)・意識(六識)・深層意識(無意識)であるマナ識(七識)・アラヤ識(八識)に分類される。弁栄聖者は通仏教では無明と一体である業識を広い意味で過去世・現生で経験した意識内容や心念等の業によって成立する識でありアラヤ識(八識)に蓄積されていると説いている。表面意識(六識)や自我(小我)の中心であるマナ識(七識)は業識と相互作用する関係にある。
 大ミオヤは不識(無意識)的絶対精神として一切の無意識の奥底に遍在し、自然界の現象(十二光の間接的顕現)においては、法身四大智慧として衆生の意識・無意識の作用を成立せしめる。また、衆生の信愛の念に絶対精神が感応し、摂取門(心霊界)の現象(聖容を含む十二光の直接的顕現)として大ミオヤの万徳による摂化が実現していく。
 それゆえ、念弥陀三昧においては、大ミオヤをお慕い申す信愛の念を表面意識(六識から深層意識に深く浸透させ、小我の中心(マナ識)を絶対中心(絶対精神)に直結することが肝要となる。十二光の摂化を被り無明が滅せられていく業識は、通仏教のように消滅するのではなく、個別具体的な活動を通して聖意を発現する大ミオヤの万徳(一大霊性)の個体現の足場となる。
 「念仏三昧することが大切。三昧しようとするその努力そのものの中に現在意識・潜在意識・絶対意識が調整せられてゆく。三昧を得てからのみ、ご利益をいただくのではなく。三昧になろうとの努力そのものの中に大利益がある。」(木叉上人)
2 常住不変の「聖容」
 在さざる處なく一切処に遍満する大宇宙全一の絶対中心である常住不変の真実在、大ミオヤ(超在一神的汎神、三身即一本有無作の報身、本有法身阿弥陀尊)の自境界である如来蔵性(十二光の統一態)は無縁大悲である絶対平等性の海として、その円融無碍かつ重々無尽である完全円満な万徳の絶対的差別内容の終局に向けた展開により、一切衆生の各各を諸仏(仏子、お世継ぎ)に円成(安住)せしめる。
 また、常住不変の真実在が一人ひとりを終局へ摂取するために縮限(自己限定)しつつも、完全円満な万徳は寸毫も縮限せざる現象態が大ミオヤの「聖容」である。「聖容」は常住不変の完全円満な万徳と円融かつ親密なる因縁を中心真髄とする相好光明大霊力により、平等一切の一人ひとりの円満な霊的人格を完成する。それゆえ、憶念(愛念)により常住不変の「聖容」に正しく心を注ぐ事、三昧仏様に即し自分の信念に相応した相対的な御姿を念い上げながら、常住不変の「聖容」であるとの感じを次第に深くするように完全円満な万徳の現れ(絶対表現)である「聖容」全体に心を注ぎ、大ミオヤをお慕い申す事が念弥陀三昧の要である。
 「如来は絶対無限大威霊と大自在と大慈愛とより我らを愛したもう慈悲からして、いと麗しき慈悲の面を表して我を愛し給うことを示し給うその慈悲の表現に対しては実に愛慕恋念せざるを得ぬ。・・・宇宙全体の大霊より表現したる人格表現なれば、その所現の身の大小に拘わらず絶対の表現なり。この霊的表現の弥陀より外に自己の絶対的に帰命信愛するものはなし。」(『人生の帰趣』)
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