名古屋・西蓮寺会場
内藤 規利子
西蓮寺は新緑に包まれていて、今年の竹の子が大きくなったんだ!と思われる若竹があり、池では緋鯉が跳ね上がっていてそばの石の上で亀がのんびりと甲羅を干していました。
5月27日、大田敬光上人様御指導で例会。ご法話の一部です。
「弁栄聖者お慈悲のたより」じゃ聖者の手紙を田中木叉上人様がおまとめ下さったものです。聖者のお言葉を直々に受け取らせていただくのに一番いい方法ではないかと思っています。お上人様はお慈悲のたより117番(縁者の夫人への病気見舞の書簡です)をお読み下さいました。
「ロシアのトルストイの人生観を開いてみるに、トルストイは50歳にして人間がいかに肉体の上に幸福を得てもこの肉体の生活を目的とすれば人生は実にはかなきものであると知った。トルストイはその頃名誉も財産もあり世にうらやまれつつある身にもかかわらず非常に人生問題に苦しみ悩み、自殺を企てるばかりに至った。哲学にも従来の教会にもいかにしても苦悩を脱することができない。自ら深く深く自己の極まりたるところ、神の光明に接して初めて心霊が目覚め、不死の命を発見し神と共に常しえの幸福を得る。人生の暗黒より解脱して神の光明生活に入りて不死の真理を悟る。その喜びを言うこともできない。それより彼は従来の精神が一転して光明の命となってその得たる光明をもって生活に立ったという。古今を問わず東西を論ぜず、心霊の開く所に如来様は現前し、迷いに覚めたるところに霊界は得られる。南無阿弥陀仏を称え、口に称えるごとくに心に光明を憶念すると共に光明的行ないをすれば、これはトルストイと同じこと。トルストイのみならず釈迦、キリスト、東西すべての聖人方と共に光明の中に生活されるように。願わくば御一家共に精神的な光の生活現在を通して永遠の光明に入らんことを祈る。御家内様はご病気になられて実に命の大事なことを自覚されたことでしょう。何のためにこの肉体の命は大事なのか、これ霊の永遠の生命を肉体の生命の中に得るためです。願わくば御病後、御自愛のほど祈ります」
私も「お慈悲のたより」を何年ぶりかで読んでみようかなと思いました。弁栄聖者がもっと身近に感じられるようになるような気がします。