名古屋・西蓮寺会場
内藤 規利子
西蓮寺にはツワブキ(石蕗)の蕾がふくらみ、センリョウ(千両)の実がもう赤く可愛くなっていました。池のホテイアオイ(布袋葵)はまだ元気で青々としていました。11月4日、大田敬光上人様ご指導で例会。法話の一部です。
弁栄聖者は霊化とか霊性化とかの言葉をよく使ってみえます。お念仏の一声一声に一人一人が心の中に霊性化(仏心)をいただいている。お念仏をいい加減に考えてはいけない。
「ナム」とは全身全霊をあげて従いますという決意の言葉。
「アミダ」ははかれない、計算できないほどの内容で阿弥陀経をはじめお経に書かれている。仏の光とか命というものは永遠のもの、人間は70年80年で一生終えるといってもこの世のことであって、もっと深い大きなものに支えられてこの世はなり立っている。その大本の永遠の命というものが、アミダという一語(インド語のアミータ)で言われている。
「ブツ」とは悟るということ。お釈迦さまは35歳の時悟られて仏陀になられた。仏になられたということはそういうお悟りを私達も今いただけた。悟らせていただけた。分からせていただけた。本当にはよく分からないにしても私たちに悟らせていただけたという意味になる。一語一語言葉というものを考えなければいけない。
この頃言葉が乱れている。ことに道場でお念仏する時の態度というものは非常に厳密に人間を見ていかければいけないから一瞬ともいえどいい加減な時間の使い方をしてはいけない。雑談は絶対にしてはいけない。ただ木魚をたたいて「なむあみだぶつ」を言っていればいいというような考えではいけない。厳しいものでなければいけない。その厳しさの中から霊性化というようなものを自然にいただける。このように有難い「南無阿弥陀仏」をいい加減に扱ってはいけない。自覚をもってやって下さい。
小2と(幼稚園)年長の孫娘は、今年の夏休みに初めて相模原親子別時に参加させていただきました。近ごろ「ナムアミダブツ」と言っている姿をよく見ますが、参加させてよかったなぁとしみじみ感じております。