光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成20年4月

名古屋・西蓮寺会場

内藤 規利子

前の日に積もった雪が残っている西蓮寺は、梅が咲き葉ボタンがきれいでした。
2月10日、大田敬光上人様ご指導で例会。御法話の一部です。(転重軽受という題の文をお読み下さいました。長いので略します)

私はバージャー病という難病で、右の足膝下10センチの所で切断しました。血管が閉塞して血が通わなくなり、指先から壊疽を起こして激しい痛みに襲われる厄介な病気です。いろいろな治療を試みましたが、何しろ激しい痛みで、その痛みから逃れるためなら足の一本などどうなってもよい、将来の損得など考える余裕もありませんでした。私が苦しんでいるとき沢山の人がいろいろの治療法を教えに来てくれ、中には坊さんである私に祈祷師まで紹介してくれる人もありました。本当は親切で心配してくれるのでしょうが、こんなとき新興宗教に迷ったりするんだなぁとつくづく考えさせられました。

手術が終わり麻酔から覚めて膝下が無くなっている自分の足を眺めた時は、ただただ涙が溢れて仕方がありませんでした。手術後3日4日と経つと精神もだんだん安定し痛みからも逃れることができました。それと共に将来のことが不安で落ち着かない毎日が続きました。法務は大丈夫だろうか?無事社会復帰できるだろうか?不安と焦りが襲ってきました。

法然上人のお言葉に、

宿業限りありて受くべからん。病いはいかなる諸々の仏神に祈るともそれにはよるまじきことなり。祈るによりて病いもやみ命延ぶることあらば、一人として病み死ぬる人はあらん。いわんや仏の御力は念仏を信ずる者をば転重軽受と言いて、宿業限りありて重く受くべき病いを軽く受けさせたもう。

一刀両断、見事なまでに念仏者の病いの受け取り方をお示し下さっておられます。仏や神にお祈りして病いが治り命を延ばすことができるのであれば、誰一人として病気になったり死んだりする人はありません。この簡単明瞭な道理が、病魔に侵されていると分からなくなってしまうのです。念仏する人は素直に病いを病いとして受け止め、病いをお浄土への道案内と感謝して念仏申していかねばなりませんともお示し下さっておられます。

私は「そうだ!この病を素直に受け取ろう」、病気と仲良くしていくことを決心しました。転重軽受です。足を切断したとはいえ、幸い膝下10センチ残っている。口も大丈夫。膝下10センチ残っていたということは、退院し法務に布教に活動するにしたがいどれだけ有難いことか痛感させられました。

念仏の積み重ね、それがやがてすべてのことを喜んで受け取らせていただける。健康も良し、病むも良しとありのままを受け取って毎日を送っていきたいものであります。

小2の孫娘はお正月に私宅に来た時、珍しく「お念仏する」と言って一人で少ししていました。その後外出先でくじ引きがあったとのことで、「初めて一等賞が当たった」とルンルンで帰ってきました。私は「良かったね、もしかしたらお念仏して行ったせいかもしれないね。でもね、お念仏していても悪いことが起こることもあるんだよ」 すると「分かっているよ。その時は他のことを学べばいいんだよね」と孫娘。転重軽受の話をしようと思っていた私は「えっ!こんなこと分かっているんだ」と感心してしまってその話はせずに終わってしまいました。孫にも劣るような私ですが、少しでも成長していきたいと思っております。

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