名古屋・西蓮寺会場
内藤 規利子
西蓮寺は新緑に包まれ牡丹(ぼたん)、石楠(しゃくやく)、小手毬(こでまり)などいろんな花が咲いて暖かい春でした。
4月20日、大田敬光上人様ご指導で例会。弁栄聖者「御慈悲のたより」を皆で少しずつお読みした後でお上人様から分かりやすくお話し下さいました。ご法話の一部です。
ゆく末のめぐみとばかりおもひにきもとより本のみおやなりしを
如来様は此世が終わって未来において救い下さるばかりではない。本来如来様には三身一体と申して、法身報身応身と分かれてはいるものの本々一つの如来様。だから法華経にもこの世界はわがものにして生けるものは吾子と仰せられている。
天地万物もその本は如来法身の規則によって行われているので、我々もその御力によって生まれ生かされているのである。実に天地万物のあらゆる備えをもって我々をいかして下さる。その目的は何のためかといえば、この人間生涯において報身如来(お念仏をする一声に応じて報いて下さる)の光明を受けて、この精神を大ミオヤの思いに叶うような魂にさせて下さるためです。如来様は衆生の魂の本の大みおやさまで、この人間界には難行苦行の修業させるために出して下さったのです。
たとえば財産家の子供がただ楽に飲食の生活をするだけならば学業も修行もいらないが、それでは人間の資格を備えることはできない。何の苦行もしなければ親の恩も分からぬのである。如来の大おやさまもいかに御慈愛が広大でも、初めからお膝元で自然の快楽を受けたのでは快楽も何も分からない。よってこの人間界に出て艱難辛苦の修行もでき荒錆を取り除かれる。そして清く楽しい御許に帰る時は初めて大ミオヤの深き御慈悲も深く感じることになるのである。
されば朝枝嬢よ、人間は一生が学校であるから大ミオヤの思いに叶う人になるようにそのつもりで日々の事をはたらくようにして下さい。如来様の御試験は日常の何をする業の中にもあることをわすれないようにして下さい。
敬光上人様は、弁栄聖者の「御慈悲のたより」の同じ所を何十回、何百回と読まれます。そのうちに「なるほど、弁栄聖者は、こういう所は、こういう気持ちでお手紙の中でまとめておられるんだな」といろいろ気づかれることが多いそうです。「だから何べんも読み、そして声に出して読ませていただくと弁栄聖者の気持ちが直々にいただけるような気がします。」とおっしゃいます。お檀家まいりには「御慈悲のたより」を持って行って御読み下さるお上人、お檀家の皆様方にも弁栄聖者のお気持ちが少しずつ伝わっていくのではないかと私は嬉しく思っております。