光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成20年11月

名古屋・西蓮寺会場

内藤 規利子

西蓮寺には赤白の彼岸花があちこちに咲き、若い薄の穂が美しく秋を感じさせてくれました。
9月28日、大田敬光上人様ご指導で例会。弁栄聖者の「御慈悲のたより」をお読み下さいました。

【お慈悲のたより 五十七】

「心なき身にもあはれは知られなり 鴫立つ沢の秋の夕暮」

と歌のひじり西行法師がお詠みになったように、大昔から変わらぬ自然の法則、山野にみつる樹々の色、草むらに鳴く虫の音、今年の秋がなごり惜しいと感じられるかと思います。

誠によく考えてみれば、大ミオヤさまのお計らいはこの世にいる多くの(私たち)子どものために何かしなければいられないようになさっています。春は蒔かざれば生えず、夏はくさぎらざれば(田の草を取らねば)実らず、秋は収穫すべきように仕事をお授け下さっている。そうして冬の寒さに春の暖和な気候を待たせるように、暑い夏の涼しき秋を招かせるように、サクラの花に浮かれる春やよいに秋の夕暮の無限の哀れを感じさせて下さる。

この世に生きている日々は食べては寝・寝ては起きの繰り返し。同じことばかりしている中に月日は変わり、来る年を迎え・送る。いつもいつも一つことばかりで倦きあきしないように、春よ秋よ花よ鳥よ月よ雪よと回り舞台の装置のように、天を見ても地をながめても実に行き届かないところがない(ほど)大おやさまの御はたらきと御恵みがあります。このことは、いかに聞き分けのない世の子どもたちにしても、考えてみたならば感謝の思いが湧き出てくるだろうと思います。

さてこれにつけても忘れていけないのは、人ごとならぬ我身の一大事。いずれ消え果てると決まっているこの身のためには少しの出来事でもなかなか捨ててはおけないと言いながら、永遠に捨てることのない我心霊のためには、永恒の光に常住の幸せを求める道のことはよそ事にしている。極楽の楽しき園に行く道に心の足を運ばないで、ただ日々夜々に三毒煩悩に心を焼かれ五塵六欲に神をけがし、如来より修行のために与えられた光明の時間をただうかうか闇の中に暮らしてしまう。いかに聞き分けのない子供というものの誠に心なき我らかなと自ら己を責めて、このまま再び会えない今日の日を空しく過ごしては、我同胞と仰ぐ方々のために、この貴重の時をミオヤさまの思し召しに添わずに浪費してしまえばいかにも残念と思い、念のためながら申し上げます。夜を通して鳴く虫さえあるのに、我らは永遠に救われるナムアミダブツを称えるのに身を入れないとはいかに愚か者よと己をせめております。

また法然上人の「あみだ仏に染むる心の色にいでば秋の梢のたぐひまれなし」のお詠のこころを思い上げても、秋の草木は色づくのに麗しく染まらぬ我心のほどを思って嘆いております。

なお申し上げたき事は多いけれど、後のお便りに遺しておきます。

(私事)

薄曇りの一日、孫たちの運動会に行きました。小5の男の子が金管バンド部でトランペットを吹くのです。現れた孫は赤い服・白の短パン・羽付きの赤い帽子でおもちゃの兵隊さんのよう。校庭を縦横無尽に歩きながら演奏する子供達はとてもかわいい。孫は習い始めの頃は良い音が出ずイライラしていましたが、金管楽器が上手な従姉妹のおねえちゃんの特訓を受けて上達し、この日は上手く吹けました。私は「やっぱり指導者の言うことをちゃんと聞いて実行しなくてはいけない、お念仏も同じことだ。弁栄聖者、お上人様のお話を心に止めてお念仏に励もう!」と思いました。

  • 更新履歴

  •