光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成22年1月

名古屋・西蓮寺会場から

内藤 規利子

あまり寒くないせいか西蓮寺の池には布袋葵が緑のまま一面に浮かんでいました。本堂には味のある字で「念佛の聲するところわが遺跡なり」と初詣のお知らせ。11月29日、少し早いのですが弁栄聖者90回忌の法要が大田敬光上人様導師で執り行われました。

(弁栄聖者の『お慈悲のたより』129をもう一度確かめておきたいからとお読み下さいました。以下ご法話の一部です。)

念仏の念という字は「人二心」二人が一つになった心の姿です。故に念仏の心と形は、一人で居っても心のどこかに何時でも如来様の心と一つになっているのです。口だけの「南無阿弥陀仏」ではいけない。称えながら、家に帰ったら何しようなど他事を考えてはいけない。それでは如来様の心と一つになっていない。心が一人でいるような気持ちになっていると、落ち込んだり人の言うことをばかりが気になってくる。「仏様が外から大きく抱きかかえて下さっている」と受けとると、心に如来様の光と火が加わる。いつでも胸の内が有難く温かくなります。いつでも仏様と一つになっている心が念仏と申します。
なぜ「南無阿弥陀仏」と何度も称えなければいけないか?私達の心はいろんなことにすぐ心を奪われてしまうから、何度も称えて念仏の空気を通わせないと念の火力が強くならない。少々足が痛くても座ってお念仏し、心を集中させて「ナムアミダ仏」と全身全霊でお任せするという気持ちで一心になって下さい。念仏の気さえよく通せば火力は強い力となって自分を勇気づけてくれるものになるのです。
実際の生活の中ではいろんなことが起こるから、それを処理しなければいけない。その時はナムアミダ仏で心をはっきりさせてもらって、仏様はいつも守ってくださるからという心で世の中を見なければいけない。テレビを見る時もナムアミダ仏の気持ちでいるといい。今は暗い世の中だが、その中で自分でいいことを選んでやっていくことが大切。それにはお念仏が一番いいと思います。

(若奥様のオルガンで「弁栄聖者哀悼曲」「のりのいと」他4曲歌いました)

(私事)

台風で半分にポッキリ折れた皇帝ダリヤ、3本揃って咲くのを楽しみにしていたのに……。それが折れた所から芽が2本、ぐんぐん伸びてある日見たらナント蕾が……。もうダリヤの人生(花生?)も終わったと思ったのに。今は折れずに4メートル以上に伸びて立派に咲いている2本のダリヤと一緒にけなげに咲いている。人も「もう駄目」ろ思っても頑張ればやり直せると折れたダリヤが教えてくれました。

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