内藤 規利子
西蓮寺の庭にはアメリカディゴが真っ赤に元気よく咲いて元気がもらえたような気がしました。紫陽花がいろいろ咲き、クレマチスがかわいく咲いていました。池には大きな鯉が沢山退屈そうにしていました。
6月27日 大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。
6月は昔から浄土宗のお寺では善導大師の御法要が営まれています。善導大師は千三百前に中国で出られたとても徳の高いお坊様ですが、中国ではあまり知られていません。しかし日本では法然上人が非常に善導様を深く信頼なさって皆さんに御紹介されたので、南無阿弥陀仏といえば中国の善導大師の教えということが徹底していたようです。善導大師御作の「発願文」は浄土宗でよく読まれるものとして知られています。「発願文」を説明しますと、
こういうことを私は願っております。弟子たちよ。私の命が今日限りでおしまいになることがあるやもしれぬが命が終わる時にこういうことを望んでおります。心がひっくり返らず、心が錯乱せず、思いが失われボーッとなって訳が分からないような状態になることがないようになりたいものだ。身と心に苦しみがあるであろうが苦しみ痛みのない自分にしていただきたいという願いを込めて普段からお念仏している訳ではないけれども、阿弥陀様にみんなおまかせしますとお念仏をしっかり心にいただくと悩む事や体の痛みがあってもその苦痛を南無阿弥陀仏の心の中心に持っていけば、苦しい痛いということがある前に阿弥陀様が今自分を守っていて下さるから無事に生きていられるありがたい尊いことですということで、南無阿弥陀仏の一字一字に心を込めてお念仏をしていきなさいよと法然上人がおすすめになり、弁栄聖者がその通りということで皆さんにおすすめしておられます。すべてをお念仏の中心に持って行けば、たとえ身と心が病気をしていたとしても心が落ち着いてくる。楽な気持ちで今の一瞬を過ごすことができて、今の一瞬が過ぎれば次の一瞬、次から次へと南無阿弥陀仏を中心にして阿弥陀様に全部おまかせしています、ということにかかりきりになって体に痛みがあろうが心に痛みがあろうがこれはまた後で考えればいい。南無阿弥陀仏と阿弥陀様と心がひとつになって念仏の念の思いがそのような形になっていけば自然に座禅をしているような状態の落ち着いた生き方にさせて頂ける。仏様菩薩様方が目の前にいて下さる。仏様は仏の願いとして南無阿弥陀仏と称える者はお浄土の一番素晴らしい所へ連れて行ってあげますよ、お浄土へ行ってしばらく修養をして六つの神通力を得てこの世に帰って苦しんでいる人を救う人となる。世の中不思議なことがいっぱいある。この宇宙の広がりはどのくらいあるか分からない。その中にどんなことがいっぱい詰まっているか分からない。
自分の願うこともいっぱいあるけれど、仏様の前でお誓いするようなことを発願し終わりました。真心をもって阿弥陀様の前で自分の心からの願いを皆さんに御披露させていただきました。
若奥様のオルガンで「いかなる日にも」と「灯」そして「Anicca-gatha」(無常偈)を原語でうたいました。先月はお手あげでしたがこの度は少し大田上人について歌うことができました。
(ここからは内藤のことです)
私は今年のお正月に大病をして危うくこの世をおさらばしてあの世とやらへ行ってしまいそうな気配になってしまいました。お念仏を称えている人はただあの世に行くだけではなくお浄土へ行くことができると聞いている私はおこがましいけれどもその折にはお浄土の末席に・・・。いえ立見席でもいい、その切符を手に入れたいなあと思っています。