内藤 規利子
西蓮寺には赤白の彼岸花がいっぱい。樟脳の原料となる楠は日本では杉と並んで長寿で大木になるという、それで癒しの木であると聞きました。そんな楠の大木が何本もあることに初めて気が付き嬉しくなりました。知らずに癒されていたのかな?と思いました。
9月26日、大田敬光上人のご指導で例会が開かれました。その時の御法話の一部です。
9月11日(お互いを理解できない宗教の対立が一因となって同時多発テロが起きた日)に東京築地本願寺、築地カトリック教会、聖路加国際病院礼拝堂の三ヶ所の音色も全く違うパイプオルガンが時間をずらして演奏された。目的は音楽を通して正しい宗教の道を少しでも身につけられるように・・・。音楽を聴いて心が落ち着いてよかった・・・。病気の人でも何となく心が落ち着くから病気の治りも早いだろうということで始まった催しです。互いに宗教の違いということを乗り越えるような共通するようなものを少しずつ学んでいこうと、お互い同志の良い所を学び合っていくようにしたらいいではないですか?ということで「一人一人が心の中で平和を見つめ直すきっかけにしてほしい」と開催されました。
お念仏が尊いには違いないがお念仏だけが尊いという考え方ではいけない。他の宗教の人達に対してどういうお付き合いの仕方ができるのかということになったら、それはお念仏をしている者がお互いのこういう所が共通するものがありますよと言えるだけの心の大きい受け取り方をしていく必要があるということを弁栄聖者は考えられて『礼拝儀』を作られた。三身即一の在ます最も尊き唯一の如来よ。三つのお体がそのままひとつという考え方、この立場に立てば仏教も仏教もキリスト教も共通した大事なものを持っている。長い歴史の中で育ったものだから称え方は違っても心は同じものがありますよというものが出て来る。弁栄聖者のお考えは巾のある奥行きの深いお念仏を現代のお念仏の考え方として皆にお広め下さったという功績がある。これが分からないと弁栄聖者と浄土宗が別の事をやっているように思われるがそうではない。巾の広いお考えで三身即一という立場をとって『礼拝儀』をまとめて下さった弁栄聖者のことが未だに浄土宗全体で通用するものになっているとは言い切れない。浄土宗の中では少しは知られているが、他の宗派ではほとんど知らない。こんな宗派の人が一緒になってこれからの時代を考えていくという時にどういう考え方でこれから行けますか?
今の時代もう少し一人一人が考えられるような所に立たないと弁栄聖者の大事さということは皆に伝わっていかないし、こういう音楽を通してやっていくという運動も「やることが大事ですな」と言いながら深めていく方向が共通して考えているという所までは行っていない。いろんな問題を持ちながらやらんよりはやった方がいいだろうということでやったが盛況でした。
若奥様のオルガンで「三尊礼」を皆でおあげし、次に「仏はいつも柔らかに」をうたいました。
(ここからは内藤の思っていること)
日本一気温の高かった「多治見」よりも蒸し暑いと言われている名古屋の暑さのすごかったこと。買ってきて生けたお花は、じきにぐちゃっとなってしまって情けないこと、そこで実家に咲いている「おみなえし」をちょいちょい義妹にもらってきました。粟粒のような蕾、咲いても4ミリあるかないか・・・。小さいながらも猛暑にもめげず長い間きれいに咲いて癒されました。私は今まで咲かせるお念仏の花は大きくなければ・・・と思い、なかなか大きく咲かせることができず嘆いて?いましたが、「おみなえし」の健気さをみてお念仏の花は小さくたっていい、しっかり元気に咲かせれば・・・と思い直しました。
「猛暑でも 元気をくれた おみなえし」