内藤 規利子
西蓮寺の大銀杏が黄色くなってこれが落葉したら黄色のきれいなじゅうたんが織り上る?ことでしょう。
昔は御祥当というとコートを着ていても寒くてふるえていましたが、暖冬でコート無しでも平気でした。
諸々の都合で一日遅れの御祥当の法要と例会が、12月5日、大田敬光上人の御指導で開かれました。弁栄聖者の御略伝を訳しながらお読み下さいました。
弁栄聖者は安政6年2月20日、千葉県の鷲野谷の念仏者山崎嘉平氏の長男として生まれ、家では農事に励み、特別に学業を好み、12才の時弥陀三尊を空中に拝んであこがれ、明治12年21歳で出家し近村の東漸寺の碩学、静誉大康上人に師事し毎夜熟睡3時間の外は雑用、学問に忙しく念仏一行昼夜絶え間なく、ある時は手の平に油を入れこれに浸した灯心を灯し、ある時は腕の上に線香や蝋燭を灯して仏前に供え、それによって忍力、仏道修行に堪えられるかを試し夙に一切経を読み終えて、東京に出て卍山上人に就いて華厳を学び央ばには法界観の三昧内かに現前し、明治15年筑波山にこもって至心念仏の暁には見仏三昧了々と発得しそれ以来一挙一動まったく仏法に相応し、施戒忍進禅慧欠けることなく大康上人の志しを継いで五香に新寺創立を志し、明治27年本堂落成に至るまでは雨漏る廃家に夜も灯もなく線香の火を頼りに阿弥陀様観音様等を描き、厳寒にも重ね着せずわらを積んで布団にし超然として勇猛に称名しました。
建立寄付も一人一厘の結縁として、遠近を行脚中に貧しい者に会えば月日を重ねて喜捨を積んだ金米全部この人に施して又一厘より寄付を集めました。道を歩くにも蟻は勿論のこと若草までも踏まず大康上人の亡くなった時は即座に追恩別行に入り横になって寝ることのない念仏は一百日に及びました。
明治27・28年インドに渡ってお釈迦様の御蹟を巡拝し帰ってからは東西に巡教し「阿弥陀教図絵」を施すこと25万余部、広く米粒に名号を書いて施しそれを見た人が「ナムアミダブツと書いてる」と、読んでそれによって御縁を結ぶことができるようにされたのは数限りない。「お念仏なんかしない!」というような有縁の一人のためにも数年導いて猶措かず、寺で特別に扱われることを断わり、わざわざ下男室に夜を明かしてお念仏をすすめ夜寒の町に貧者を訪れては当日供養を受けた下着を脱ぎ与え如来の大悲を喜び合いました。日毎夜毎の伝道に疲れし色もなく忙しい中に少しの閑を得ては如来の尊像、教えを説いて導くお手紙を書き汗血にじむ慈悲の雫が幾千枚。その報謝の金はすべて会堂の創建となり光明学園の創立となり、数万の文書、数十万の礼拝儀の施本にあてました。食卓の上、浴室の中あらゆる所みな説法の道場で同じ所に住まず年中巡教。非常に寒い日、非常に暑い日も一日の休養もなく、その間に宿所にある古今の書籍近代科学に至るまでつとめ励んで深く研究し、又画歌音楽五筆(両手両足及び口に筆をくわえて文学を書く)等、諸技みな衆生を救済するために使う手段で霊応内に満ちて念々不捨、寝息までが称名するほどで、説法をしていない時は読書、読書をしていない時は書き物、実に一寸の光陰も為すことなくして過し給うことなく、集まる浄財はみな人のためにして使用済の紙一枚も節約して裏に原稿を書きました。すべて仏作仏行わずかなすき間もない行状に接して始め高慢にしていた人も皆つつしみ敬ってその教えに額ずき、諸宗は勿論キリスト教の牧師まで信仰心を起こしてその門に入る。真っ先にお唱えした光明主義の光、万民に受け念仏三昧各地に盛んに行われ入信の行者幾万、皆お会いできたことの御恩を感泣して永遠の願業に心が勇み、超えて大正9年吹雪に更ける北越の夜寒身に沁みる権化(仏の道に入らせること)の旅に老いの御声で、無くなることのない如来のお慈悲を伝えて最後の三昧会を木枯悲しき柏崎に導かれて12月4日遷化されました。
※ここからは内藤のこと
姉妹でお参りされている方、お年を重ねられましたがとてもお元気そう……。でも御本人方は「目も悪くなりヒョロヒョロでダメですわ」「腰も痛いし曲っているしもうダメですわ」とおっしゃりながら「でも気持は元気なんですよ」と。皆様からとても大事にされてお念仏のお陰と感謝していらっしゃりいつも穏やかなお顔をされていて姉妹喧嘩はしたこともないとのこと。流石心の花で人生を飾っていらっしゃる方は違うと思います。いつまでもお元気でと念じております。