光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成23年3月

内藤 規利子

西蓮寺にはろう梅が咲き赤白の葉牡丹がズラーッと並んでいました。あれ!こんな所に狸の置物ってあったっけ?1月23日 大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。
『礼拝儀」と浄土宗のお経を皆でおあげしました。若奥様のオルガンで「いかなる日にも」と「灯」を皆でうたいました。

「灯」
いかなるひにも みずからを みずからをこそ ともしびとし
いかなるときにも ダルマを ほうをこそ あかりとともし
いのちあふれて いきていこう

お釈迦様はどんな時でも一番頼りになるのは自分なんだよ。本物の自分になることが大事、その中から自分の頼るものがはっきりと自分をささえてくれる。

「灯」は自分の行く先を照らしてくれる目標。明かりが心に点っていれば暗闇で迷ったような生き方をしてきて、どうしていいか分からないような時でも心に点った「灯」が自分を導いてくれるよ。自分の中にある心の「灯」がちゃんと自分で点さないといけない。そうしていかなる時にも自分の中にある一番尊い法を身につけないといけない。天地の法則、天地には変りようのない自分を支える一番大きなものがあるんだよ。それを知らなければいけない。そういうものを知った自分が一番のより所になる。それを支える大きな天地の変わらない命の大本のようなものがしっかり自分の中に来ているということを知らなければいけないよ。

むずかしいことのようではあるが南無阿弥陀仏のことなのです。これが法ということなのです。お釈迦様がそういうことをおっしゃるということはなかったかもしれませんが、それを法然上人が南無阿弥陀仏をしっかり受け取りなさいよと、しっかりお示し下さって、法ということとお釈迦様が自らを大事にしなさいよということがはっきり分かるようになる。法然上人が法とは南無阿弥陀仏のことですよと説いて下さったのを弁栄聖者がもっと分かるようにして下さって、一番頼りになるものを受けとらせていただけるようになっている。

人間どうやって生きていったらいいのか、目の先が真暗になってしまった、自分の命が後何ヶ月もないというような時、何をより所にして生きていくのか、普段から教えを聞いていない人には目の先が真暗で何も頼りになるものはない私は何のために生きているかも分からない状態になってしまう。そんな情けないことではいけない。南無阿弥陀仏をしっかり受けとればお釈迦様のおっしゃった法というものがしっかり分かるようになるんだよ。

内藤のことです。

もうじきお正月という時まで1ヶ月以上きれいに咲いていた皇帝ダリヤ。咲き終わった花を付けておくと身すぼらしいので高枝鋏で切っていたらまだ若い蕾をチョキン!と切ってしまい「しまった!」これから咲くのにかわいそう、捨てるには忍びなく多分ダメだろうとけれどももしかしたら咲いてくれるかも・・・。淡い期待をもって花びんにさしてそのまま忘れていましたが、お正月になってふと見ると咲いているではありませんか。咲いてくれたんだ!ダリヤの人生じゃない花生?を止めてしまったと悲観していたのでとても嬉しかったです。

人でも、もうダメと思ってもあきらめることはない。誰でも頑張って生きてほしいと思いました。それと同時に見事に咲いた皇帝ダリヤの陰に金柑の木があり私はいつも「風邪予防」と思って少しづつ摘んでいるのに、今年は10分の1程しかならず、小さくてまだ青い。実家の金柑はお陽様をいっぱい浴びて大粒で甘くなっているというのに。今年はダリヤの葉が沢山繁ったので陽当たりが悪かったからだと思います。

人の心も如来様の御光によらなければ本当に生きることはできないという。
やっぱりお念仏を称えなければ・・・・南無阿弥陀仏

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