西蓮寺例会報告
内藤 規利子
西蓮寺の門をくぐると紅葉黄葉が……。赤の山茶花も美しい! 本堂の前に立ち見上げると真青な空が・・・何ときれいな青。くるりと見て今日は日本晴かな。12月4日弁栄聖者の御祥当でした。昔はとても寒かったけれどコートもいらず暖かい一日でした。大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。御法要の後、弁栄聖者お慈悲のたより百八をお読み下さいました。少し短いお便りには振り仮名があったので小学生の子等も一緒にお読みすることができました。
人間は何が一番幸せでしょうとなれば、先ず私は本当に親を知りて親の慈愛に抱かれていつまでもいつまでもおることが出来る人であると思う。さればとて人間の親はそういつまでも一緒にいることは出来ぬ。この世はおろか未来遠きにまでも離れずに大なる慈愛の光明に抱かれているお互はこの上もない幸福ではありませぬか。
この世の中に大なるミオヤの在ますことを知らずして、あたら人生を気まま我ままに空しく徒らに闇の裡に葬ってしまう人は本とうに親様に対しても不幸のみならず自分でも本とうに損であるけれども左様な人は只気ままに贅沢で世を送れば真の損ということがわからぬもの故、かえってその方が幸福だと思っている。それというも大ミオヤの聖意が少しもわからぬ故である。又人生は何のために生まれ来たりしや、目的が何のためとも定まらぬからであると思う。
とてもこの世の中は何事とても、そう思う様にはゆかぬものであるから自分の心で大ミオヤを一心に念じて御光明によりて心を取りかえていただけば悲しみも変じて喜びとなる。不幸も転じて幸福となる。
是ほど有り難い光明が常に身辺を照らしあるを知らずして自分に自分で罪を造り、苦しみを構えて、日々に日暮しをする人は本とうに可愛そうである。どうかして大ミオヤの光を世の人々にしらせたく思うてそれのみを思うており候。
これは弁栄聖者の生き方の根本になるような一番大切なことを思いながら生きてきたということのあらわれですね。初めて聞かれる方でも御法事の時など読ませていただくとお経だけではなかなか受け取れなかったお参りという時の気持ちの整理がだんだんさせていただけたと喜ばれる方があります。御法事などで読ませていただくという大事さを改めて知りました。
奥様のオルガンで「弁栄聖者哀悼曲」と「歓喜光」を皆でうたいました。
内藤のことです。
学区の行事。「わが町ウォーキング」で、学区の中を紅葉を見ながら歩くという。私は完歩できるかなあ? と不安だったけれど「役」のため行くことに。途中お寺お宮お稲荷があるので少しは休めるかも……と思ったのですが甘かった!1時間40分休むことなくひたすら歩く。皆さんの早いこと・・・。一生懸命付いて行きました。
出発の時主人と私は◯◯さん御夫婦の少し後ろにいました。途中で「内藤さん!」と話しかけられたのは友人の御主人で近況を話して下さって先に行きそこへいつの間にか御近所の方が・・・。「足が痛いんだけどね」と言いながらも先へ。それなのにいつの間にか又側に・・・。信号などで停止することが多かったせいなのか◯◯さん御夫婦が見えなくなったのに又後で「あれ!◯◯さんあそこに・・・。どこに行っていたんだろう見えなかったのにね」他にもそんな方がいらっしゃって「こうやって別れても御縁があれば又一緒になるんだね。生まれ変わっても又一緒になるんだよね。どうせそうだったら仲良くしていた方がいいよね」なんて主人に話していました。結局主人と私は一度も別々にならずスタートからゴールまで一緒、一番縁の深い人でした。ゴールで美味しいお善哉をいただき、くじを引いたら二人とも「ティッシュを五箱」。◯◯さん御夫婦が「お宅も同じだね内も同じ」見ると二人仲良く「お茶入れ」を下げていました。へえ!なんか面白いって思いました。