光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成24年5月

西蓮寺例会報告

内藤 規利子

西蓮寺には赤と白の沈丁花、ボケ、ピンクと白の枝垂梅、赤白染め分けの大輪の椿、上にはさんしゅゆの黄色い花が・・・。奥様に「今年の椿は特別大きくないですか?」と伺うと「大きさは同じですが今年は数が多いですね」と。書院からその花々を見て何ときれい!しばし見とれておりました。

3月25日、大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。

『礼拝儀』を皆でおあげしました。弁栄聖者の「御慈悲のたより」四十三をお読み下さいました。1月号に掲載済みですので略します。

ゆく末のめぐとばかりおもひにき
もとより本のみおやなりしを

弁栄聖者の頃はもっと大勢お念仏をしていたけれど、そのお念仏の仕方はどうかすると「この世はとても難しいからせめて亡くなった時、仏様がちゃんと自分を守っていただける極楽浄土・仏様の所へ行かせてもらえば、誠にありがたい自分になれる」ということで、生きている時より亡くなってからのことをはっきりと安心できるあり方に自分を持っていってくれる、そういうような気持ちでお念仏を称える人が、弁栄聖者の行かれる先々でも、随分おられるんだなあというようなことをお感じになったのではないでしょうかね。自分の行く末も亡くなった後のめぐみと思っている人が多いけれど、本当は南無阿弥陀仏と阿弥陀様にお任せすると死んでから先にお任せするのではなく、今私等がいきている事態が阿弥陀様に守られて生きていられる。私達が生まれる前から阿弥陀様が自分達をちゃんと抱きかかえるようにして守っていて下さる。そこへたまたま私達が生まれてきた。この今のあり方すべて私を生み出しても何の差し支えもないように阿弥陀様がして下さる。元々から阿弥陀様の元にあってこの中で私達一人一人が生まれそして亡くなっていく。いろんな生まれかた、亡くなりかたもある。いろんなこともあるけれど、この現象界の元にもうひとつ大きな命の世界があって、そういう命の世界を一番考えないことには私等が生きている命というもの、どうやって私等が生きられるか分からないままで命が終わってしまう。その本当の親がいて下さるということで安心できる。弁栄聖者がこういう気持ちにみんながなってもらわないととには、お念仏という本当の深い訳も、その人の身についたことにはならんなあということで、こういうお手紙を書かれたのではないでしょうか?

如来様は三身一体とうことで受け取らせていただいて、南無阿弥陀仏と申し上げるのだけど、「南無」とは「お敬い致します」というこちらの気持ちが南無ということで、何をお敬いするか、阿弥陀様に「お願いします」「お任せ致します」、阿弥陀様を「頼りにしております」。こういうことで南無阿弥陀仏と申すのです。

本来阿弥陀様は三身一体と申して法身報身応身と分かれてはいるけれど元々はひとつの如来様です。

法身「産みの御親」。産(生)み出す元。宇宙全体の大きな元になるような自然というものが、生きた大きな如来様の命があるからすべてのものが生み出されてくる。私等のような者まで産み出されてくる。

報身「救いの御親」。私等が南無阿弥陀仏とお称えするとちゃんと応じて下さる。南無阿弥陀仏をお称えすると一人一人が無意味に言っているのではない。阿弥陀様にちゃんど伝わって「分かった分かった。あなたの気持ちはよくわかった」ということで向こうからの返事がいただける。手応えがある。私等も守っていただけるという気持ちがちゃんと分かって、あぁ阿弥陀様有難いなということになってくる。

応身「教えの御親」。応ずるお体。何が応ずるかというと、人間の体と同じようなものとしてということです。人と人なら話はよく分かるでしょう。人としての仏様が応じて下されば一番頼りになりますね。お釈迦様が私達の気持ちを一番分かって下さる方として仏教を始めて下さった。それじゃあお釈迦様が教えて下さったのなら、お釈迦様が亡くなられたら誰が教えの御親になって下さったのかというと、それはお釈迦様の教えを他の方が説いて下さって、近くは弁栄聖者、あるいは田中木叉上人他のお上人方になって下さる場合もある。その他よく知っている方が教えて下さることもある。その方が応身になって下さるということで誰と決める訳にはいかないけれど、とにかく全体をひっくるめて自分を守っていて下さる救いの大きなお力になって下さる。如来様は私らが知っても知らずでもそんなことは関係なく、どこかで自分を守って下さる方として、いつも自分の所まで来て下さっています。

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