光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成24年7月

西蓮寺例会報告

内藤 規利子

西蓮寺は、さつき、紫蘭、君子蘭、しゃくなげなどが咲き中でも一番美しいのは「はこねうつぎ」でした。その「はこねうつぎ」が書院にきれいに活けてありました。5月20日大田敬光上人様御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。礼拝儀と浄土宗のお経を皆でおあげしました。「一緒に読んでみて考えていきましょう」と善導大師の御作の発願文を説明しながらお読み下さいました。

願いを起こす言葉。仏様の教えに従う者の心得、菩薩の心得と言ってもいい、仏様の方向を向いて仏様のおっしゃるような人間にさせていただきたい。善導大師はお弟子方にこう言われた。「皆さん私はこういうことを願っているんですよ」。命終の時にのぞんで……。漢文で確かに読めるが名古屋から出られた椎尾弁匡上人は「ここの読み方を間違えてはいけませんよ」とおっしゃって命終の時にのぞむまでと読んだ方が正確に善導大師の御心に従った読み方になるというお話をいつもされていました。命終わる時に、もっと前からそういうことを心掛けておくべきではなかったのか、という問題がある。普段からの願いにならなければいけないのではないか? ということは当然のことである。

命終わる時にこうありたいものです、死んでから先に私はこうしたいというのも理屈は成り立つ。極楽浄土へ行かなければそんなことはできないから極楽へ行ってからこの世に戻ってきたいからというならそれもいいかもしれないけれど、椎尾弁匡上人はもうひとつ生きている間に私達の生き方が、現在これに気付いたら今から出発しなければ駄目ではないかとおっしゃった。椎尾弁匡上人の言われたことをかみ分け聞き分けしてなぜ椎尾上人がそういうことを強調されたかを考えてみることは大事なことだと思います。

命終の時にのぞむまでこの世で一生懸命活躍するんだよ。どういうことを心がけていくかというと、心が落ちつかない、自分が無いようなことになってしまって、本当の自分を見失ってしまうようなことのないように、身と心に苦痛がなく、身と心がすっきりして明るい気持ちになる。快活で体の痛みなどもない、そういう状況にあって座禅をしているような心の落ちつき、心が張り切って充実感があり心が安定した状況になっていきたいものだ。いろんな言い方はあるが観音菩薩、勢至菩薩などが前にいて下さるような気持ちになって仏様の願いのままに、仏様はすべての人を極楽浄土に迎えて仏様のような御心になってもらいたいというのが願い。お浄土に往生させていただきたいものです。深い悟りをいただけると多くの方々を救うことができる。浄土へ行ってからは六神通を得てこの世に帰ってきて苦しみの人々を救う人となっていただきたい。宇宙が広々として限りがないように私の願いも数限りなくあるどこまでも願いを持った人間になってほしい。どうぞ心を深くアミダ様の方に帰依する心になってほしい。というのが善導大師の願いです。

内藤のことです。

例会の日、娘と小五の孫娘と金環日食の話をしました。娘に「観察用の物を用意した?」と聞くと「してない。天体にはあまり興味がないんだわ」と。孫も見るといいがと思っていた私は「こりゃダメだ!」とあきらめました。私は一目でも見たい! でも売り切れているという。捜すのも面倒でガラスを黒く燻して作りました。「目を痛めるからそれで見てはダメ」と言われていたけれど一瞬だったらいいだろう……と。木漏れ日が輪になるというのでどの木がいいかな? と下調べまでしたけれど当日万が一寝過ごしてしまったらここでは932年ぶりに見られるというのがダメになる。孫娘に「朝おばあちゃんに電話してくれる?」と言うと「いいよ」とのことでしたが、目覚まし時計より早く目覚めてしまい電話をくれた孫は「おばあちゃん起きていたんだね」「電話くれるって言ったから安心して眠れたんだよありがとね」と。少し前に薄雲があったのに時間には晴れてきれいなリングが見えてラッキー!! すごく感激しました。電話が鳴る、こんな時間に誰? 出ると「おばあちゃん見た?」「見たよ」孫娘は姉が理科で専用眼鏡を持っていたので娘も二人の孫娘も見られたという。「めっちゃきれいだったねぇ!! 」と大感激。娘も自分だけでは見なかったけれど子供のお陰で見ることができたと喜んでいました。見られなかった人々がいるというのに如来様からのステキなプレゼントをいただいた気がしました。それにつけても一目でもいいから見たいと太陽にあんなに思いを寄せたのに心霊界の太陽であらせられるという如来様に寄せる思いが乏しいのではないかと反省しました。

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