西蓮寺例会報告
内藤 規利子
西蓮寺には薄の穂がかっこうよく開いて風にゆれていました。「あっホトトギスが咲いている!」足下には沢山の橙色の星くず?が。キンモクセイだ!見上げると大木のキンモクセイが・・。今年は遅れて咲いたので会うことができました。いつも咲キンモクセイが咲かずどうしたのかと思っていたら、どうも残暑で秋が訪れても「まだ夏だ」って思っていたみたいです。
10月28日、大田敬光様御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。
礼拝儀でいつもあげているとうっかりして気が付かないというか、読んでもつぅーっとあげてそんなことあったのかなというような気持ちが出てくるのは非常に用心しなければならない。たとえば『至心に回向す』我らは曽て心闇くして如来の在すことを識らざりき 然るに如来の大悲招喚の声に驚きて至心に如来に帰依し奉れり 我らは曽て心闇くして・・・一日一日生きている間に生き方が本当に受け取ろうとする心の目がだんだん閉じてくる。そしてそういうことを感じずに一日を過してしまうことになりがちなんですね。如来がましますということが分かった人は、今日の一時間、今日の一日は何とかこれを生かすようにしなければいかんなあということになるものですよ、という弁栄聖者のお言葉なんです。
私達は何をしていても大自然にちゃんと備ったものがあってアミダ様の命、量れない命がこの大宇宙全体に行き渡っている。それを生みの御親という。そこからいろんなものが私達の目の前に出てくるんです。耳に聞こえ、目に見え鼻にかぐことができ口で味わう。「甘いな」「これは苦い!」「しょっぱいな」・・・とか。鼻は「この匂いはおかしいな」「いい香りだなあキンモクセイが今頃になって咲いたなあ」とか五感がありとあらゆる物を受け取るようにと一人一人ちゃんと元々ある。これがどこも故障のないということは幸せなことですよ。私は10日程前風邪ぎみになってしまってお参りに行っても声が出ないで不便でした。ここ2・3日快復してきて普通に出るようになり、ありがたいなあと思います。そのしゃべっている声を聞くこともありがたいことですよね。目が見え耳が聞こえることがありがたいと思えないことは勿体ないことですね。考えてみると朝から晩まで勿体ないことばかりなんですよ。目があろうが耳があろうがそんなこと当たり前と思っている人も多いけれど、それがそうじゃない、声が出なくなったら相手の人に伝えることもできない。病院に行っても「これはもう治りませんよ」ということになっているかもしれない。そうならずに回復してくれることは、ありがたいと思わなければいけない。そういうことにならないうちにちゃんと分かる人にならなければならない。
「ノーベル医学生理学賞」が山中伸弥教授に贈られ、再生医療に道が開かれました。「偉ぶらない超人」「気さくで腰が低く控えめ」「ユーモアあふれる人」「家族を大切にする」等々書ききれない。御本人は「感謝しかない」「仲間を大切にしないとほとんどのことはできない」「9回くらい失敗しないと1回の幸運はつかめない」等々おっしゃる。とても素晴らしい方だと思う。
学生時代柔道、ラグビーで怪我が絶えず医師の世話になり治す側になりたいと整形外科医を目指したが研修医時代に10分で終わる手術に1時間以上もかかり先輩医師に「アシスタント」でなく「レジスタント」(邪魔者)とからかわれ「ジャマナカ」とあだ名が付いた。この頃だんだんと自信を無くしいつも小さくなっていた。その臨床の現場で、名医でも治せない怪我や病気が多いことも痛感し、米国など充実した環境の中で研究に没頭したが、帰国すると研究を論議する相手、研究費も無く、マウスの世話に追われる日々。「ネズミの世話ばかりしている父親なんて・・」と娘の姿が涙で滲んだ。「うつ」のような状態まで追いつめられた。「ジャンプするにはかがまないかん」克服するためにたどりついた答えが「体細胞から万能細胞を作る」人の命へのこだわりが逆境を乗り越えられたという。
ノーベル賞をもらえるような方でもいろんな悲しみ、苦しみがあるけれど、それを乗り越えておられる。今苦しい人達、いじめられっ子も、いつかは羽ばたける時が来るでしょう。いじめられっ子だったからこそ・・・と思える時が来るかもしれない。世の中の苦しんでいる人、頑張って生きてほしいと願い、私も頑張ろうと思いました。