光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成26年8月

中部支部 教学研修会

矢野 司空

7月5日から6日にかけて中部支部主催の「教学研修会」が開かれました。講師には京都西方寺ご住職の川本剛空上人が光明主義について解説してくださいました。

参加者は支部長を含めて8名。決して多い人数ではありませんでしたが、その分全員が熱心に聴講していました。

今回は、「如来光明礼拝儀」をテキストにして、弁栄聖者の思想を追求する内容でした。残念ながら時間の都合で、十二光の無対光までしか進むことができませんでした。

5日の2時より念仏が始まり、その後支部長による現在の光明会の現状報告がなされ、さらにこの研修会の意義が説明されました。

3時より第一講。礼拝儀の成立を述べた後、「至心に帰命す」の内容について説明がなされた。6日の2時まで5回にわたって弁栄聖者の思想を西洋哲学との比較も交えながら講説された。内容的にかなり難しいものでしたが全員熱心に聴講され、不明なところは食事の後の時間でも質問して取り組んでいました。

中部支部主催の研修会は、地理的な問題もあるせいかいつも参加者が少ないようです。このままで続けることが必要なのか、他支部との共催にした方が良いのか悩むところですが、中部の特色は維持して行くことも大切なようにも思われます。

皆様の今後のご協力をお願いします。


西蓮寺例会

内藤規利子

「明日は沢山降るってよ」というその日、雨に降られず西蓮寺へ。緑が深くなりアメリカデイゴが真赤に空に伸びて元気に咲き、蓮の葉が大きくなり東門にはダチュラが咲き夾竹桃がきれいでした。6月22日大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。

お釈迦様のおっしゃったことを忘れずにちゃんと保存しないと後々の人のために惜しいことになるということでお経という形でまとまった文章になっている。それがインド語で書かれたものだけでも物凄く多かったはずです。これを漢文に翻訳するということがあって非常にこれは厳密にそういうことが何度もこれで間違いではないかということでまとまったお経様ということである。

奈良の時代、大仏様ができた頃から各お寺で専門にやるこれを写経するということも国家的な事業としてやっていた。国家でやるお役所までできてそこへ勤める人は写経をする。漢文を一生懸命勉強する。一字一句間違いなしに写しとるということをしていた。そういうお経様の中でもある時代はこういうことが盛んに行われたけれど後の時代になると戦争なんかが起きてなかなか翻訳も自由にならないという時も出てきている。そういう事まで全部こう少しずつでも確かなことで裏付けをして間違いのない扱いをしなきゃならんという問題もありましてね、学問の道はなかなか険しいものがありますな。

中でもここ(プリント法句経友松円諦訳)に書いてある詩のような形になっている法句経これはお釈迦様のお心がよく表われている。思っていなさることがちゃんとまとまっている大切なものが423集めたお経様です。母の心を持った素晴らしいお母さんがいて下さることはありがたいことだよ。お父さんがいて下さることも幸せなことだよ。月に一回でもお寺参りでもしてこうしてお参りしながら父や母を大事だなぁと思うようなお参りをしなければいけないなぁ。そういう気持ちを持っていただく。人間の正しい生き方を心掛けてやっていけるような人がおられるということはありがたいね。尊いものを求める気持ちのある人がいてくれることは本当に幸せなことだ。お心の優れた方がおっていただくということはありがたいことだなぁ。人は生きておるということは尊いことなんだ。やがて死んでしまう者ばかりだけれどその死んでしまうことの中でも死なない何かをちゃんと自分が自覚して生きていける人間になるということは一番尊いことだよ。本当の天地の正しいあり方それを正法という言い方でお釈迦様は言っておられます。

そういうことを少しでも聞かせてもらうことはありがたいことだなぁ。お釈迦様以前にも仏というものはインドではちゃんとおありになったんだということが分かる。諸仏と書いてあるからお釈迦だけを仏様として敬うというそういうことではない。悟ればみんな仏になれるんだよ。だから南無阿弥陀仏で悟りを開くということもできるんだよと言っておられるのが弁栄上人ですよ。念仏を心から喜べるような人は全くお釈迦様の心と何も変わらない仏様の心と同じ心をちゃんと一人一人にいただいているんだよ。そういう生き方になっているんですよ。この礼拝儀の南無阿弥陀仏の深い意味をよくよく知ってお念仏というものは大切なものだよということを受けとらなければいけないよ。お悟りの一番深い所にまで南無阿弥陀仏を本当に真面目に受けとらせてもらう人にはみんなそういう気持ちがちゃんといただけるんだよ。こういうことを言っておられるんです。

ここから内藤のことです

荻野円戒上人が生前「八十年の人生の旅には信仰の杖を早く見つけないと我々の一生は幸せにはいかない。心に信仰の杖があれば八十年の人生を歩き通すことができる。この杖がないと大怪我をするか大失敗をしてしまう」とおっしゃっていましたがこの度、怪我をして杖がいかに大切かをしみじみ感じました。「大腿骨頚部」を骨折して手術の後、杖なしではとても痛くて歩くことができない。杖のお陰で歩けることが分かり荻野上人がおっしゃった人生の旅には信仰の杖を持つことが大事ということ身に染みて分かりました。細いけれど信仰の杖を持っていてよかった?。お念仏の杖にすがってこれからも歩んで行きたいです。

〝信仰の杖、大切に活きていく〟

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