西蓮寺例会
内藤規利子
西蓮寺は何故かひっそりとした感じでピンクの椿、石蕗、ホトトギスなどが咲いていました。本堂の前には何の木か分からないけれど赤い実がかわいく付いていました。浄土庭園と言われている裏庭には小さな滝が流れていて池には布袋葵がいくつかぽっかりぽっかり浮かんでいてそこへ「何じゃ? これ?」と思うほどのジャンボな鯉が姿を現してびっくり!! この子は池の主だろうなぁ…。
10月26日大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。
「般若心経」なんかでも262文字でよくあれだけの翻訳ができると思うくらいです。「摩訶般若波羅蜜多心経」、「摩訶」とは大きいということで私達の考えているよりも、もっともっと大きい限りない大きさということ。アミダ様というのは量られない命と光で象徴されるような光ということはやっぱり仏の智恵というもんでね、私達の智恵にも続いておるのですが仏の智恵というものは人間の智恵をはるかに越えた智恵が宇宙全体に備わっているという考え方が仏教にはある。人間だけが智恵を持っているんじゃないですよ。自然がみんな智恵を持っている。だからすごいですよ。
宇宙というものは私達が死んでも地球が回るのをやめるということはない。地球だけではない。太陽の周りをグルッと回っている。太陽系全体がもうひとつ大きなところでちゃんと運行されている。すごく大きな働きを持っているんですよ。何千年経っても何億年経ってもやっぱりちゃんと規則がある。人間が考えるよりはるかに超えている。動物でも智恵がある。植物でも智恵がある。木があって大風で倒れるだろうと思っても大風が吹いてもビクともしない木があるでしょう。根がちゃんと張っているんです。不思議な働きを草木でも持っていますな、小さな昆虫でも利口なもんだね。小さなゴキブリがいたから捕まえようと思って紙を持ってみるともういない。うまいこと隠れている。
小さなゴキブリでもどうしてあんな智恵があるんかね。親がああやって教えているんかね。今日皆さんこうして一緒になって木魚を打って南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えそれで量られない阿弥陀様の智恵と光を強く少しでも私の中に頂戴できますようにとそういうことが木魚を打つ時にこの音で心の中にひとつずつ間違った心が打ち砕かれて心が清らかになってくる。
奥様のオルガンで「仏はいつも柔らかに」を皆でうたいました。
ここから内藤のことです。
次の詩は「星野富弘詩画集カレンダー」の中の一節です。
木にある時は枝にゆだね
木の葉のように
一番美しくなって
散れるだろう
私はこの詩に教えられています。こんなふうに活きることができたらどんなにかいいだろうと思います。
星野富弘先生は中学校の体操教師で新任して2ヶ月後に器械体操で空中回転した時に誤って頭部より転落し頸椎を骨折し肩から下がすべてマヒの障害を背負わされてしまい手も足も体も全く動かないばかりか感覚すらなくなってしまいました。絶望的な闘病生活の中でわずかに動かすことのできる口に筆をくわえて文字を書き絵が描けるようになりました。といっても絵筆に絵具も自分では付けることができなくて「こういう色を付けて」とお母様に絵具を付けてもらって口にくわえさせてもらって描くのだそうです。後には結婚されて奥様がお母様のかわりをされて描いているとのことでした。
原画展は素晴らしくて感動し涙が浮かんできました。私なんか手があっても描けない。それなのに…。どの詩も絵もステキでテレビで見た星野先生は何とも穏やかで仏様のようなお顔をされています。今年も落葉が見られる季節になりました。私もいつ散るか分からないけれど美しく散りたいと思っています。でも…無理かなぁ。