光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成27年4月

西蓮寺例会

内藤規利子

西蓮寺の門をくぐると何かひっそりとした感じ……。どうして? そうだ、花が見えない。それでも奥へ行くと沈丁花の蕾がふくらんで今にも咲きそう。赤白の梅が咲き、ピンクの大輪の椿、赤白染め分けの大輪の椿が咲いていました。植木鉢のクリスマスローズがきれいでした。

2月22日大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。

まず道場へ入る時はお香を焚いて道場を清めますよ。この中にいる人の心がひとつひとつクリーンになってくる。心が清らかなものにさせていただける。お香を焚く時は心得が非常に大切、お香というものは回りの雰囲気が良くなる。八ツ鈴(鉦)を打つのは集まった人達にどうやったら心が落ち着いた気持ちで言葉がすうっと出られるか工夫されている。浄土宗のお勤めは何百年も前からやっていますからね。皆んなが集まった時にどんな人が集まってもこの鈴(鉦)の鳴らし方でそういう気持ちでだんだんいくようにという細かい配慮があって八ツ打つようになっていて、こういう形(願我身浄如香炉)で入っていく。礼拝儀の3頁如来光明歎徳章、仏阿難に告げたまわく、お釈迦様がお弟子の阿難におっしゃったとこういう内容になるここではじめて本当の意味のお経になるんですね。お釈迦様のお言葉ということが6頁までいくわけですよ。

〝仏の言わく我無量寿如来の光明威神の巍々殊妙なることを説かんに昼夜一劫すともなお未だ尽すこと能わじ〟お釈迦様がおっしゃったことがずうっとお話が続いて無量寿如来お釈迦様が阿弥陀如来様を「素晴らしい方だよ」と称えたのが4頁から6頁のことです。これは無量寿経という長いお経様なんですが弁栄聖者にとって一番中心になる所を「ここだよ」と一ヶ所をずうっと持ち上げて如来光明歎徳章という言葉であるところをここに使っておられる。この言葉は朝のお勤めの時も夕方のお勤めの時もそのまま如来光明歎徳章が出とるわけですよ。よほど弁栄聖者にとっては無量寿経の中のアミダ様のことをちゃんとお釈迦様自身がまとめて説いて下さっている一番大事な受け取り方の重要点が「ここだよ」と注目するためにこうして朝夕ちゃんと入れとって下さる訳ですね。

奥様のオルガンで「灯」と「法然上人頌」を皆でうたいました。

ここから内藤のことです。

「笑点」の名司会者だった落語家三遊亭円楽さんの七回忌の法要が営まれたと聞いて円楽さんのお父さんの御立派な最期の時のことをテレビで見たことを思い出しました。円楽さんは東京浅草の浄土宗のお寺の四男として生まれ東京大空襲の時はお父さんが火の海を「人のいない方へ行こう!ジワジワ死ぬよりはボンといったらお終いだから…」とガスタンクの方へ家族を連れて逃げ全員無事だった。

12才の時、お父さんの勧めで農業学校へ入学し家族のために必死で働く。19才で結核発病し死まで覚悟して遺影まで撮ったがお父さんのすすめた「金魚運動」が功を奏したのか結核が治る。後でお父さんに聞くと「金魚に肺病はねえんだ!」と言った。

19才で寄席に行き「笑いは人に生きる気力を与える力がある」と落語家になろうとするがお父さんは大反対で「出ていけ!」と。お母さんは小言など何も言わぬ人で「言わぬは言うに勝るんですよ」というような人だったが「この子は家の犠牲になったようなもの好きなことをやらせてあげて…」と賛成してくれた。落語家になるも「円生の真似」と言われ、いくら頑張ってもダメで体重も60kgから48kgに減ってしまいホームから飛び込み自殺をはかるまでに…。その時お母さんは名人でもない息子を「お前は名人だよ」とほめてくれた。そこで「お母さんをそこまで心配させちゃいけない、じたばた迷ったんじゃみっともない」とただ真一文字に向かう。

29才三遊亭円楽を襲名。それを機に7年半振りに父と和解。その次の年お父さんは胃癌で余命一ヶ月医師の好きな物を…の言葉でアイスクリームを食べ三ヶ月延命でき「俺は死ぬぞ」「そろそろ逝くからな」と言い「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と二言言わないうちにうっと亡くなってしまう。

私はこれを聞いて南無阿弥陀仏を称えながらお浄土へかえれるなんて何といいことだろうとしみじみ思いました。〝生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には思い煩うことぞなし〟と聞いてはいるけれど心もとない私です。

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