光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成27年12月

西蓮寺例会

内藤規利子

西蓮寺は椿の蕾が大きくなって咲くのが楽しみでした。紫紺野牡丹が数を増してとてもきれい。ネムの花が蕾(つぼ)んで面白い形で下がっていました。菊が幾鉢もあって秋を感じさせてくれました。10月18日大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。

「法然上人のお言葉」

阿弥陀仏は本願として名号をもって罪深い衆生(ひとびと)を浄土へみちびこうとお誓いになったのである。それ故にただ一向(ひとすじ)に念仏さえ唱えたならば、仏のお迎えにあずかることは自然の道理でうたがいのないことである。只々念仏を申せば阿弥陀仏の浄土に往生できると信じています。釈迦は念仏して往生せよと勧められ、弥陀は念仏せよ。迎えに行こうと仰せられた。ただこの一事だけを信じて他の事は何も知らぬ。理屈でせんぎ立てのみに始終すれば、念仏も消え失せてしまうであろう。

富める者も、貧しい者も慈悲ある者も慈悲のない者も欲の深い者も性質の良からぬ者も阿弥陀仏の本願の不思議によってただ念仏さえ申せば何れの人もみな往生が出来るのである。誰でも念仏を申す者は必ず往生せしめようとの願いによって、どのような機根の人をも平等にすくおうとおおせられた本願である。ただ利口ぶって人の器量についてとやかくの分別をせずねんごろに念仏さえ申せばみな悉く浄土に生まれることができる。何をおいてもまず「南無阿弥陀仏」と仏のみ名を唱えるがよい。み名の徳で迷える思いも自然と止んで阿弥陀仏の御許に参ろうと願う心もまた自然と生まれて来よう。ましてや阿弥陀仏の本願はこころ千々に乱れておさめがたいものを導き助けんがためである。妄念の起こるのをとどめがたいにつけても、ひたすら本願を仰ぐがよく、心が乱れて静まらぬにつけてもひたすらにみ名を唱うるがよい。たとい日常の業務(しごと)をするとしても念仏を申し申し業務をするのだと思うがよい。仕事をしながら念仏するように思ってはならぬ。(念仏こそ先ず何よりも大事と思えとのこころ)人の命は測られぬもので食事中にもむせて死ぬことすらある。南無阿弥陀仏と噛んで、南無阿弥陀仏と呑み込むがよい。生きていては念仏して如来の照護(おまもり)をこうむり死んでは浄土に行くものぞ。生きるも死するも此身には、思いわずらうこともないと思えば、もはや生死のわずらいなど更にない。この世をすごすには、念仏の申されるようにしてすごすがよい。念仏のさまたげになるものはすべてすてて、止めてしまわねばならぬ。独り身で念仏が申されねば妻をめとりて申すがよい。妻ありて申されねば独り身で申すがよい。家にあって申されねば巡り歩きて申すがよい。巡り歩きて申されずば家に在って申すがよい。自分の力で生活を支え得ずして申されずば、他人(ひと)に助けられて申すがよい。他人に助けられては申されねば、自分の力で生活をささえて申すがよい。一人で申されねば同門を共に申すがよい。同門と一緒にて申されねば一人にて申すがよい。源空(わたくし)はたとえ死刑に処せられようとも念仏の趣旨はどうしても言わずにおれない。

奥様のオルガンでいかなる日にもを皆で歌いました。

ここからは内藤のことです。

8月に親友と永遠のお別れとなってしまいました。友人は長い間、闘病していましたが私が病気になってからは「頑張ろうね!」と励まし合っていました。私は友人にお念仏を勧めてきました。ある日友人は「お念仏を称えていたら空にそびえる金ピカの仏様が現れて下さった…、」とびっくりして話して下さいました。私と思うこと好きな食物、花、絵何もかもそっくりで二人で前世で一卵性の双子だったかも…と話したくらいです。「規利ちゃんがいてくれるから生きていられる」と勿体ないようなことを言っていただきいろいろ話を聞いたりしていました。私もできる限りお見舞に行きましたが私が病気になって行けなくなってしまって…。御自分がすごく具合が悪いのに私のことをとても心配して下さっていました。

お別れをして、もう声を聞くこともできないと思う私の耳に友人の最後の声が「留守電」から聞こえてきてびっくりして泣きました。とても心配して下さって最後「頑張ろうね!」と結ばれていました。

治療中で辛い時だったけれど友人だけは何としても会いたいと思い息子に通夜に連れて行ってもらいました。遺影の友人は嬉しそうに笑っていました。少し元気な頃、近くの公園に出掛けて私が撮ってあげた写真だったのです。棺の中の友人はとてもきれいで思わず「きれいだねぇ」と言ったくらいです。御主人が「このまま嫁に行ってもいいくらいだ」とおっしゃったほどです。告別式は「お母さんが倒れるといけないから」と息子がとても心配してくれたのですが「どうしてもお見送りがしたい」という私に息子が折れて迎えに来てくれました。車が出て行く時「私もいずれ行くから待っていてね」と言うと何か答えて下さった気がしました。

大変な闘病生活から解放されてきっと仏様の許で楽しく暮らしていて下さるであろうと毎日御冥福をお祈りしています。

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