西蓮寺例会
内藤規利子
西蓮寺の門をくぐると何かシーンとした感じ。あぁ花たちの姿が見えないせいだ。そんな中赤いカンナがきれいでした。大木のキンモクセイの香りが…凄い! きれいに咲いたであろう鉢の蓮の葉っぱが虫にでも食われたのか昔々浪人が内職に張った番傘がボロになって骨が残っているようで面白かったです。10月16日大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。
言葉とは大事なものなんですよ。今、最初から終わりまで南無阿弥陀佛という言葉を使って立ったり座ったりして礼拝儀の時に南無阿弥陀佛をお称えしましたが、これは全く新しいセンスですよ。これなぜって、これは何語ですかと御法事の時に皆様におたずねしても「昔から南無阿弥陀佛とは言いますけれど訳分かりませんねえ」とおっしゃる方がほとんどですねえ。これはねえ日本の言葉でないから分からんのも当然でしょう。南無阿弥陀佛はインドの言葉なんです。南無阿弥陀佛は佛様の名前、アミダ様に向かって南無、お敬いしておりますよ、お会いしておりますよ、お会いできて有難いです。そういう気持ちが南無阿弥陀佛。
(次の文章は例会中に、読んで下さいと私の方からお願いしたものです。弁栄聖者のお慈悲のたよりを藤堂俊章上人が編集して下さったので分かりやすいと思います。)
『お慈悲のたより』下巻「十八」三〇頁
雨も風も常の天地の働き
「今日はよきお天気と思えばまた翌日は風が吹き出て、風が静かになりたりとすればまた曇となり雨となる。本当にうるさき世といわばいうものの、その中に娑婆の変化極まりなき趣きがあるのである。この世の中に生存するほどは、この心配が漸くかたづいたと思えば、また次に一の心を使わねばならぬことわき出て来る。本当にいつになりたならば、何の心がかりもなき真にのどかなる心の春になるであろうと、大かたの人は思うのであろうけれども、それは風も雨も曇も暑さ寒さもなき一年中を望むようなもので無理な要求である。風も雨も暑さ寒さもみな常の天地の働きとして見なければならぬので、ただ人間の都合や勝手のために天地は働きなしているのではない故に、自分の方から天地の気にかなうようにしてゆかなくてはならぬと存じ候」
娑婆とは苦しみの世。人は文句ばかり言っている。暑い寒い雨ばかりとか、自然の方に重点を置いて、あぁ今日は雨が降ってくれてよかったね。といい方へ結びつけて考えていったらいいことも悪いこともまあまあいい世の中に思える。そういうような生き方でいったらどうか。いちいち腹を立てるような悪いことも、自分がさせたからと反省するような気にならないといけない。
ここから内藤のことです
7月光明学園の親子別時に“牛に引かれて善光寺まいり”のおばあさんのように娘孫に連れられて参加させていただくことができました。何のお手伝いもできない私を皆様方は温かく迎えて下さって心の故郷へ帰ったようでした。学園の生徒さん卒業生の皆様が大勢いらっしゃってとても嬉しかったです。山上光俊上人様の御法話は楽しくて分かりやすく夜のお上人様と参加者の交流も楽しく爆笑に次ぐ爆笑でした。笑うことはとても体にいいという。免疫力も随分上がったことでしょう。小学生の時は光明学園の親子別時に参加させていただいていた中3の孫娘、「私はいつになったら親子別時に行けるだろう?」と言っていたそうですが、中学生になって吹奏楽部に入り土日祝の長期の休みもなく、練習に明け暮れ、自分の都合で休むことができなくなっています。それが親子別時が終わってからすぐの「県大会」を通過し次の「東海大会」でも一番で通って秋には「全国大会」へ。娘は「中3の受験期なのに勉強する時間がない。どうなるんだろう…」と言いながらも滅多にないことだからと応援しているそうです。孫娘は吹奏楽で人間関係も学び、人として成長しているそうで有難いです。テレビのドラマ『仰げば尊し』寺尾聰さん主演、実話のドラマ化という。高校の落ちこぼれ? の吹奏楽部がいい先生の指導で心まで育てられ全国体会へ行くまでの話。私もいろいろ教えられ楽しく見ていました。ドラマの先生の言葉。『もっと今という時間を大切にして何か夢中になって生きてみませんか。頭で考えるな心で動け! 誠意、謙虚それに感謝だ! 家族は大事にするんだぞ! 一生懸命生きていればそれを必ず見てくれる人がいる。心の灯を燃やそうよ。心の灯を消すなよ!』私も心に灯った仏様を思う心の灯だけは消さないように今はまだ提灯のような灯だけれど、もっと大きな灯にしなければ…と思っています。
南無阿弥陀佛。
徳雲寺別時念仏会
◇日 時:10月1日(土)
◇会 場:愛知県西尾市徳雲寺
◇法 話:矢野司空上人
◇参加者:40名
布施行者、颯田本真尼開山の徳雲寺別時念仏会は今年で三回目を迎えます。参加者40名の称名の声高らかに、すばらしいお念仏会でした。当日の矢野司空上人のご法話は次のとおりです。
- 尼僧念仏者の伝統
- 三河の地に徳雲寺を創建した颯田本真尼の師は叔母にあたる颯田本乗尼という高徳の尼僧で、その本乗尼の師は慈本尼という立派な尼僧でした。慈本尼は母親が非業な死に方をして幼いころから親戚に預けられ、颯田家に子守りとして働いているとき徳本上人の高弟である徳住上人の法話を聞き仏道に志し母親の追善のため念仏に励み三昧発得した高徳の尼僧です。三河の方では尼僧を庵主さんといい、現代では庵主さんが少なくなって徳雲寺も私がお守りしておりますが、この地域には念仏者の庵主さんの伝統がありました。
- 念仏という行への自覚
- 法然上人が浄土宗をお開きになったときに、念仏という易行の浄土門をお選びになりました。念仏は易しい行ですが、あくまでも行です。念仏行には別時など集中して行う定善と日常の散漫な心でなされる散善の念仏がありますが、散善の念仏だけでなく、河波上人や空外上人が「点化」と説くような一点に集中する念仏の行も必要です。法然上人は死後の極楽浄土への往生だけではなく、今を生きることを含めた生死という“いのち”について、迷いの世界から覚りの世界に往くために行じることが念仏と説いています。念仏による覚りの世界は自分というものが無くなって仏とひとつになる。これは自分が仏になるのではなく仏が自分になるのです。南無阿弥陀仏と言った時点で既に如来様に包まれていることを信じ、如来様に全てを任せ、一点に集中していく念仏の行が覚りへの道なのです。
- 弁栄聖者の十二光体系と七覚支
- 弁栄聖者の十二光体系の中でも最後の難思光、無称光、超日月光の三つは光明主義の教学では「宗教倫理」として捉えられます。この宗教倫理とは念仏により心がどう変わっていくかということです。難思光は考えられない光、無称光の称は名称の称で名づけることのできない光、超日月光は日月という日常を超えた光のことですが、無称光の中で弁栄聖者は念仏三昧の深まりのプロセスとして七覚支を説いています。弁栄聖者の説く七覚支の最初は択法覚支で、択法覚支とは選択の択と法を念仏と捉え、念仏の一点に集中することと河波上人は説いています。次に行を念仏と定めたからには努力し集中していく働きが二番目の精進覚支です。三番目の喜覚支は念仏を続けていくと喜びを生じ心安らかになり悦しくなる心中実感上の覚です。四番目の軽安覚支は喜びの感じが進んで心平らかになり心身が軽やかになる覚です。そして軽安が進むと禅定となり、如来が自分となる境地である五番目の定覚支になります。六番目の捨覚支は定覚支により対象への執着がない状態となり、とらわれを捨て去ることができるようになり、いかなる時も念仏三昧を無意識にできる境地となります。最後の念覚支は常に禅定のうちに如来が自分となる境地であり、如来様の心を胸に宿し人間の中心真髄すなわち心の核を次第に造っていく覚です。
念仏行は誰でもができる易行ですが、夫々の段階に従い、夫々ができる範囲でいいですから夫々が行として精進し励まれますよう祈念しております。そして七覚支により夫々の念仏三昧の深まりを味わっていただきたいと思います。
藤田庄市著『修行と信仰』(岩波書店)の中で矢野司空上人が紹介されています。是非ご一読ください。