西蓮寺例会
内藤規利子
西蓮寺はお花の少ない時季でした。それでも真白のムクゲが二輪こっちを向いて咲いていて「こんにちは。よく来たね!」と迎えてくれているようでかわいいなぁと思ってしばらく見ていました。夾竹桃も咲いて中庭には赤いサルスベリが咲いていました。玄関の下駄箱の上には布で作った花があり、珍しいことに葉っぱがいろんな紺のかすりの柄の布で作ってあり、とてもいいなぁと思いました。“すなおにごめんなさい”の標語がありました。書院には白のカサブランカが活けてありきれいでした。7月16日大田敬光上人様御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。私からお願いして藤堂俊章上人様が編集された弁栄聖者お慈悲のたよりをお読み下さいました。
- 自ら火を点ぜずして
- 最も急務なるは自己の本務たるところの、如来の光明宣伝に候。自らまだ光明獲得せずして、他人に伝うるという理あることなし。自らの蝋燭にまだ火を点ぜずして、その火を他の蝋燭に伝うという理なければなり。先ず寝ても醒めても念じてもまた念ずべきは光明名号(南無阿弥陀仏)なり。念々常に光明名号を憶念するときは、薫習久しうして麝香と共の同器の物に香気が薫ずる如く、常に如来の光明念じて休まされば、やがてわが心中に如来のいと清らけき霊しき光明は赫々として照耀しぬべし。その清さ、その麗しさ、その馥しさ、その悦ばしさ、その聖さ、何とも名状すべからず(言いようがない)。心広く体肝かに、かかる光明の常に心中にかがやける人を是れ人中の分陀利華(蓮の花)と名づけ、観音勢至の友というならめ。
心配はしない。心配ごとばかりしているとその心配ごとが心を占めて眠っていても眠っていないような状況にしてしまう。お念仏して心がすっきりしてくるとまぁいいや心配することはないと思っているうちにスーッと心が深い所に行ってしまう。心配ということが一番体に持ちこたえられない、心配せんでもいい、南無阿弥陀仏と称えておればいい。心配している暇に南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀様が守って下さるからと思う。心配ない。有難いなぁ阿弥陀様にお任せして明日のことは明日のことにしましょう。
奥様のオルガンで「清浄光」を皆でうたいました。
ここから内藤のことです。
このところ私の体の不調はこの上もなく少し快方に向かっているもののまいっています。癌が大きくなってきているであろうと思われるほどに日に日にだるさが増して発病した時もあまりのだるさに寝たまま畳の中にめり込んでいくんじゃないだろうか…明日目が覚めるだろうかと思ったくらいなのにそれよりもっと悪くなってしまい食欲は全くなく「食べないと死ぬ」と言われて何とか食べようと思っても好きな物でも食べたくなくて、かんでいるとゲッとなり仕方がないのでお茶で飲み込んでようやく少し食べられる…が長く続き塩分不足になってしまい癌が大きくなったのダブルパンチで日に日に起き上がるのがむずかしくなって起き上がる時寝返りの時腰と背中がもの凄く痛くて大変な思いでほぼ寝たきりの状態に…。骨に転移しているかも…。もうこれで終わりかなぁ。10cm先の物にも手が届かず主人の手を煩わせ他のことも主人に頼むので主人の忙しいことといったらこの上もない。主人も倒れてしまうかも…。子供達も心配して入院させてもらおうと先生にお願いすると「入院してもやることがないしそのままになってしまう人もいるんですよ」に帰宅しました。塩分不足のため夜も昼も眠るわ眠るわまるで赤ちゃんのよう。起きていられないので横になってお念仏をお称えしてもいつの間にやら眠ってしまう。思考力は0に等しく話を聞いているのさえ辛い。立ち上がるとフラついて時に尻もちをついて頭をゴツン。よかった!ガラス戸でなくて…。危ないからと這っていてもコロンとなって椅子に頭をゴツン!なんじゃこりゃ…。食事中も座っていられず横になって一休みして起き上がる。どうにもだるい。梅干を食べ塩あめをなめお茶にも塩を入れて飲む。新しい薬の治療が始まって癌が少し小さくなって血中塩分も増えて目が覚めている時間が増えてきて面白い!と思いました。食べる事もいやでなくなってきたけれど私はやせて「骨皮筋衛門」になってしまいました。テレビのドラマでうまくいかなかった女医先生が先輩に励まされたという話。「お陰で随分遠回りした。遠回りすることで見える景色もある。人それぞれでいいんだと思うどんな景色が見えるかは…」と女医先生は言っていましたが私も遠回りをしたけれど違った景色をみたんだと思っています。これからもどんな景色が見えるのかな。辛い長い長い日々。人様の情けが身にしみます。人様の気持ちがよく分かります。私の知らない方が私のことを心配し心にかけて下さったことを知り、とても心強く有難く思いました。皆様方にも励ましていただいてありがたくこれからも頑張ろうと思います。お念仏をお称えして…
南無阿弥陀仏