山本サチ子
私は大学の事務局で働いているために多くの留学生と出逢いがありました。
学内の留学生の大部分はアジア系の学生でした。国の数だけ数えてみるとさほど多い数でないのですが多くの留学生と接してきました。留学生の生活は決して楽ではありませんでした。まず、彼等は学費を納めさらに生活していくためアルバイトに多くの時間を費さなければなりませんでした。国の親からの送金は微々たるものであったからです。
深夜のアルバイトは時給が高いため遅くまで働くのです。学費減免制度や大学独自の給付奨学金制度があっても不足分については何とか自分で用立てなければなりませんでした。少しでも金額の高い奨学金の受給者になるには成績もかなり優秀でなくてはならないのでした。努力を重ねてはじめて給付奨学金受給者になれるのです。このような生活をしているから体調が悪くなり、医療費の補助金申請書も毎月のように提出されていました。そんなある日のこと、私に保険相談室から至急来室をお願いしますとの内線連絡が入りました。行ってみると男子留学生のA君が激しく泣いていました。
「ずっとこの状態なのです。何とかなぐさめて下さい・・・」と。事情をたずねると「国に帰りたい。両親や兄弟に逢いたい」と言い続けています。しかし彼が国に帰ることは許されませんでした。祖国では戦争の最中であり、家族と逢うためには国外に来てもらい他国での再会という方法しかなかったのです。
日本に来るのには相当な覚悟をしてきたはずなのですが生活の中でショックな出来事があったため我慢の限界がたち切れてしまったのでした。私は何と言ったらよいものか迷った挙げ句にごく普通のことを言いました。
「明日は皆で昼食を一緒にとりましょう。おいしい物をたくさん食べて元気をつけ、いつか国に帰れる方法を皆で考える事がいい。もちろんゼミの先生にも来ていただくから、明日、また必ずこの部屋に来てね」
A君はやっと聴き取れるような小さな声で「ハイ」と返事をしたのでした。
翌日の昼食は皆が持参の弁当や学生食堂の食べ物などを持ち寄り、交換し合ったりしながら楽しく食べました。卒業後のことなど話に夢中になり、3限の始業のチャイムの音にあわてて解散したのです。
それから一ヶ月程経ったある日の午後、A君が私をたずねてきました。そして「山本さんに見せたいものがあります」と言いながらカバンを空け一冊の本を取り出しました。それは「新約聖書」でした。
「僕は毎日これを読んでいます。山本さんも是非読んで下さい」
本を受け取り、パラパラとページを開くと中は全部英文で書かれているものでした。
A君は「解らないところは僕が和訳します・・・」と。そこで私は自分が昔、読んだ事があることや、そして「弁栄聖者とお念仏」のことを熱く語りました。黙って聴いていたA君は「山本さんは幸せな人ですね!自分にはこの宗教があるとはっきり言える人は僕は幸せな人だと思います」と言って帰って行きました。
A君が卒業してちょうど2年たったある日、海外から私に一本の電話がありました。それはあのA君からの電話でした。とても懐かしそうに挨拶して「僕、日本人女性と結婚しました。そして自国の国外で彼女も一緒に両親や兄弟と逢うことが出来ました・・・」と嬉しい声が伝わってきたのです。そこは国境で自国の山脈が見えるところだったそうです。
現在、A君はヨーロッパに住んでいるとのことでした。A君の電話の向こうのはずんだ声がとても幸せそうでした。
受話器を置くと私は思わず「石川啄木」の短歌を口ずさんでいました。
ふるさとの山に向いていうことなし
ふるさとの山はありがたきかな
感激で胸が熱くなった思い出の出来事でした。